【マルクスとアインシュタイン】 vol.16
◎マルクス主義の実態(その14)
(注)初読の方は、まず、vol.1〜15を必ず熟読して下さい。
→ http://mediax.hp.infoseek.co.jp/mm5/bn.htm
●批判による布教
マルクス主義の重要な特徴の一つに、「批判」があります。
事実、マルキストたちは、批判が大好きです。
故に、好戦的で挑発的。
だから諍いや災いのもとになる…。
もっとも、御本人たちは、そうは思っていないようですが…。
それはともかく、この「批判」というものが、実は大変なクセモ
ノなのです。
どうも少なからぬ人たちが、批判に対し、何か科学的とか論理的
といったイメージを抱いているように思います。
でも、それが、とんだ大間違いなのです。
批判にも、味噌もあれば、糞もあるのです。
というわけで、今回は「批判」の問題点について追求します。
●絶対の前提が必要
批判には、絶対の前提となるものが必要です。
批判とは、要するに、評価の一種(破壊性を伴う評価)ですから、
そのための基準となるものが必要です。
それが、批判を行うための前提となるものです。
それ無しでは、評価はできず、批判もできません。
しかも、それは、絶対確かなものでなくてはなりません。
いい加減な基準では、いい加減な評価しかできず、故に、批判も
いい加減なものになってしまいます。
というわけで、批判には絶対の前提となるものが必要なのです。
●絶対の前提となるものとは?
さて、それでは、一体、どういうものが、「絶対の前提となるも
の」になるのでしょうか?
理想的には、絶対的な真実とか真理ということになるのでしょう
が、人間は神ではないので、そういう完璧なものを望むのは無理
というものです。
したがって、現実的には、以下の二つになるでしょう。
(1) 常識
(2) 信仰
本当は、三つ目として、「事実」を加えたいところです。
ですが、「事実と思われていたことが、実は事実ではなかった」
ということもあるでしょう。
「実験や観測で確認された」と思われていたことが、後になって、
「検証が不十分だった」とひっくり返ることもあります。
ですから、ここは慎重に…、「事実」という言葉を露骨に使うの
は避けたいと思います。
一方、常識や信仰には、実際に見聞き・体験したことがもとにな
っているものもあります。
ですから、(1)の「常識」や、(2)の「信仰」に、「事実(だと人
間が思っているもの)」が含まれていると考えて下さい。
とにかく、批判のための絶対の前提となるのは、上で述べた二つ
です。
そして、このことが、批判に関する大きな大きな問題となってく
るのです。
以下に、その理由を説明いたしましょう。
●常識とトンデモ
常識は、長い間、多くの人たちに信じられてきたものです。
それ故、常識というものを批判のための絶対の前提にしてしまう
と、新しいもの(今までなかったもの)が否定されてしまう…と
いうことになります。
いわゆる「常識に反しているから…」という理由からです。
これでは、変革など絶対に無理です。
マルキストのような革新派や進歩派の純・理論家たちは、出る幕
が無くなってしまいます。
そこで、彼らは、常識を部分的にのみ採用するというやり方をと
るわけです。
常識といえども、検証に耐えてきたものもあれば、迷信的なもの
もあるわけですから、「一理ある」と言えないことはないでしょ
う。
ですが、その一方で、このやり方には重大な問題点があるのです。
部分的にしか肯定(採用)しないということは、残りの部分は否
定(または無視)するということです。
つまり、常識を部分的に否定することになるわけです。
一方、常識を否定することは、いわゆる「トンデモ」でしょう。
ですから、部分的にとはいえ、常識を否定すると、「トンデモ」
になってしまうことになります。
これが第一の問題点です。
●ダブル・スタンダードへの道
第二の問題点は、「常識のうち、どの部分を肯定し、どの部分を
否定するのか?」ということです。
その際、「どうして、この部分は肯定され、別の部分は否定され
るのか?」という理由が、当然、問われることになります。
ですから、よほど確かな証拠を示さない限り、こういう「つまみ
食い」的なやり方は、恣意的な御都合主義になってしまいます。
「あっちは良いが、こっちは嫌!」という、単なる差別・贔屓・
選民主義にすぎないことになります。
つまりは、ダブル・スタンダードの世界です。
これは、みなさんも御存知でしょう。
●一貫性がない部分的継承
第三の問題点は、常識を部分的に肯定したり否定したりすると、
一貫性が無くなってしまうことです。
常識というものは、大抵、一つの体系をなしているものです。
ですから、一部を否定するようなことをすると、体系が崩れてし
まうのです。
その結果、言っていることの一貫性が無くなってしまうのです。
それを無理に押し通そうとすれば、当然、これまたダブル・スタ
ンダードに陥ってしまいます。
このように、革新派・進歩派の純・理論家たちが、常識を、まと
もな形で、批判のための絶対の前提にすることはできないのです。
彼らは、常識を部分的にしか継承できないのです。
彼らの言う「批判的継承」も、まさに、この部分的継承のことな
のです。
一貫性がないのも当然でしょう。
また、だからこそ、水と油を混ぜようとするような支離滅裂な論
理も、平気で展開できるのです。
以前取り上げた「弁証法的唯物論」などは、まさにその良い例で
す。(精神と物質のごたまぜ。)
●信仰と客観性
次に、「信仰」を、批判のための絶対の前提にした場合の問題点
について考えてみましょう。
こういう話題の場合、「信仰」という言葉は、本当は、「(自己
の)信念」という言葉に置き換えられるべきなのかもしれません。
ま、要するに、自分が信じているものを絶対の前提にする、とい
うことです。
ちなみに、常識とは、多くの人たちの間の共通の信仰である、と
言えます。
これに対し、ここで取り上げる「信仰」とは、特定の個人や集団
が信じているもののことです。
信仰というものは、客観性を欠くものですよね。
ともすれば、独り善がりになりがちです。
したがって、そんなものを批判のための絶対の前提にするのは、
非常に問題のあることでしょう。
そのようにして行われた批判など、所詮、主観的なものにすぎま
せん。
自分(たち)とは異質なものを排除するための攻撃、破壊活動。
自分(たち)の信仰を守るための闘争。
つまり、結局は、その人(たち)の信仰そのものにすぎないので
す。
そして、そのような批判を認めることは、特定の人間(たち)だ
けを贔屓する選民主義にすぎません。
その結果、「誰々の言ったことだから…」という論理がまかり通
るようになります。
これでは、単なる偶像崇拝の権威主義。
それ故、「天才」などというオカルト用語が、科学の話の中で、
堂々と用いられるようになります。
そう言われると、思い当たる節があるでしょう。
●自分は批判の対象外
以上のことから、彼らは、自分を批判の対象には絶対にしないこ
がよくわかるでしょう。
つまりは、自分こそが、批判のための絶対の前提になるのです。
自己批判精神のない人は、自己矛盾に気付かない。
だから、自己矛盾も平気なのです。
常識の部分的肯定で良識や正統を装いながら、常識の部分的否定
で斬新さを気取る。
でも、その実態は、常識への侮辱と、自己の信念の宣伝(→教義
強要)にすぎません。
これが、彼らが批判を行う真の動機です。
こんな調子ですから、彼らは、自分たちに都合の悪い「確かな事
実」を猛烈に嫌います。
そのために、事実を隠したり、潰しにかかったり、歪めたり、自
分たちに都合のいいように(再)解釈したりすることが珍しくな
いのです。
要するに、自分たちの頭の中の世界こそが絶対なのです。
彼らの批判は布教にすぎないことが、これでわかったでしょう。
カントの批判主義や、デカルトの方法的懐疑などとは、全く対照
的です。
そして、そういう先人たちの主張を、部分的に継承する形で利用
し、権威を獲得してしまうのが上手いのも、彼らのアブナイとこ
ろなのです。
(参考→ http://mediax.hp.infoseek.co.jp/mm5/11.htm )
彼らにとっては、批判もまた、革命の武器なのです。
●赤い批判で始まり進化し続ける近現代物理学
さて、相対論や量子論に始まる近現代物理学も、実は、こうした
「批判」によって始まり、進化してきたものなのです。
ですから、人に厳しく自分に甘いダブル・スタンダードのオンパ
レードなのです。
これなら、アサヒスト、イワナミスト、エヌエイチケイスト、コ
ウダンシャイスト…といった人たちがハマるのは当然でしょう。
というか、近現代物理学そのものが文化マルキシズムなのです。
科学の仮面をつけた「思想オタク」の世界。
だから、自分たちが信じるものを、批判することも、疑うことも
したがらない。
実態をよく知る者からすれば、正体バレバレなのです。
──────────────────────────────
発行者:media
──────────────────────────────
バックナンバーへ