【介護者虐待】 vol.21
●批判から始める愚
もし道に迷っている人がいたら、どうします?
「あなたは、この地のことが理解出来ていない」などと批判する
でしょうか?
フツーの人は、しないですよね。
ならば、痴呆(認知)症に関しても、同じことが言えるのではな
いでしょうか?
相手が無知なだけの場合、すなわち、悪意が無い場合、批判から
始めるのは愚かなことです。
そういうことが、NHKは全然わかっていない。
批判大好き。
これは、文マルの証拠です。
こんなところからも、正体バレバレになっています。
ま、家族批判が大好きなのも、文マルの特徴ですからね。
家族は虐待加害者!と決め付ける。
こんな愚かなことをやっていて、理解など進むわけがないでしょ
う。
●所詮は“あやし”にすぎない「正しいケア」の実態
そもそも、誰かさんたちがメチャ持ち上げている「正しいケア」
とは、どういう類のものなのでしょうか?
実は、その多くは、“嘘”や“騙し”や“誘惑”による“あやし”
に属するものなのです。
そう、赤ん坊や幼子を“あやす”のと同じです。
あれ〜?、お年寄りの尊厳とやらは、どうしっちゃったの〜ぉ?
そういうものしかないのなら、でかい口たたかなきゃいいのに…。
やっぱり、人に厳しく、自分に優しい人たちです。
批判から始めるから、そういうことになるんですよ。
“あやし”なら、誰でも思い付くことじゃん。
ただ、フツーの人は、そういうことが出来ないだけですよ。
特に若い人の場合、目上を“あやす”なんて失礼なこと、フツー
は気が引けちゃいますよね。
そういうことが、まるで「理解」できていない!
もっとも、私としては、“あやす”ケア自体には、今のところ、
賛成せざるを得ません。
なぜなら、大事な人を守るには、それ以外に方法がないからです。
と言われると、「冗談じゃない!」と怒られるかもしれませんね。
でも、それは、あなたが相手のことを、それだけ深く、また、真
剣に思っている証拠です。
誰だって、“あやす”なんて侮辱的なことはしたくないものです。
でも、今のところ、他に方法がないのです。
となれば、それを受け入れるしかないでしょう。
逆に言うと、これが介護の厳しい現実なのです。
とはいえ、自分のことは棚に上げて、人のことは「お年寄りの尊
厳を無視している」と批判する文マルたちの態度は、やはり許せ
ないですけれどね。
●「理解」などできるわけがない
“あやし”は、はたして、相手を「理解」している行為と言える
でしょうか?
それは、むしろ、現実的な対処にすぎないもの…というべきでし
ょう。
文マルたちの話を聞いていて、非常に気になるのは、「理解」と
いう言葉をやたらと口にすることです。
患者のことを理解すべき…というふうに。
確かに、理解できるものなら、理解したいものです。
こと肉親なら、誰でもが、そう思うはずです。
でも、それが出来ないから困っているのではありませか。
なぜ、そういう事情が「理解」できないのか?
痴呆症患者のことを「理解」することは、不可能です。
なぜなら、彼らの思考は、混乱しているからです。
混乱したものを理解など出来るわけがないでしょう。
そもそも、記憶からして混乱しているのです。
「だったら、どう混乱しているか?ということを知ればいい」と
思いますか?
いえいえ、それは素人の“浅はかさ”というものです。
記憶の混乱の仕方(度合い)は、変化してしまうものなのです。
これでは、知ったところで、すぐに通用しなくなってしまうでし
ょう。
加えて、症状が進むと、記憶から自分の考えなどを組み立てる能
力も無くなってくることがある。
理論屋どもが考えるほど単純な問題ではないのです。
「理解」が不可能な以上、「理解」を優先させるのは賢明なこと
ではない…ということが、おわかりいただけると思います。
「理解」を優先させていたら、理解できない限り、何の介護もで
きない(∴しない)でしょう。
これでは、患者を守ることができません。
辛いことですが、ある程度、“割り切り”というものが必要なの
です。
●他人と家族
文マルたちの話を聞いていて、最も呆れさせられるのは、患者の
態度が、たとえば家族相手と他人相手とでは違うことがあるとい
う実態を、全く「理解」していないことです。
彼らは、こういう問題を、「まだら」などという言葉で片付けよ
うとします。
こういうところが、いかにも似非唯物論者という感じです。
人間というものは、家族には甘えたがるものです。
また、他人の前では、立派に振る舞おうとするものです。
痴呆になっても、そうした意識は持ち続けていることが少なくあ
りません。
そういうことを、なぜ、いつまで経っても「理解」できないのか?
●統一的に扱おうとすること自体、間違っている!
「正しいケア」論を見ていて、非常に気になるのが、患者を統一
的に扱おうとしていることです。
だからこそ、「正しいケアを施せば…」などと軽々しく、ほざく
ことが出来てしまうのです。
そんな画一的なやり方で通用するほど単純な問題ではないのに…。
人はみな、境遇が異なります。
ですから、記憶も異なる。
また、それ故に、性格も異なる。
たとえ痴呆になろうとも、こうした個人差が無くなるわけではな
い。
加えて、病状もみな異なる。
となれば、統一的(画一的)に扱うことなど、絶対に出来るわけ
がないでしょう。
こういう単純志向的なところが擬似科学的だ!と私は言いたいの
です。
言うまでも無く、「統一」とか「画一的」というのは、文マルの
傾向です。
●外国の猿真似は×
また、このことから、介護の仕方について、外国の猿真似をする
のも良くないことであることがわかるでしょう。
日本と外国とでは、違うのですよ。
文化も、精神も、生活・社会環境も…。
困ったことに、文マルたちは、痴呆介護の分野でも、欧米の猿真
似をしたがります。
特に、北欧は、大のお気に入りのようです。
性教育と同じ…ってことですね。
●「私は理解している」という大嘘!
自分たちの「正しいケア」を自慢する文マルたちは、とにかく、
「理解」という言葉を振り回したがります。
「私は理解している」と。
これは、痴呆介護の分野に限ったことではありません。
どんな分野においても、そうなのです。
本当は理解していなくても「私は理解している」とほざくのが、
彼らの十八番なのです。
そうやって、己の優位を見せつけようとするのです。
また、そうやって、(理解できないことを正直に白状する)他者
を卑しめるのです。
これが、彼らのお決まりの手口なのです。
騙されては、いけません。
「理解」という言葉を振り回す連中は、大抵、文マルです。
これは、私の長年(?)の闘争経験から得た事実です。
正直言って、痴呆人権ブームのことを初めて知った時、「ついに、
こんな分野にまで進出(侵略!)してきたのか」と、ぞっとした
ものです。
ホシュの無防備ぶりにも呆れましたね。
まさに、「だめだ、こりゃ」です。
そもそも、健常者である介護者(特に家族)のことも理解できな
い者が、患者のことを理解できると思いますか?
以上のことからも、彼らの正体は明白でしょう。
こんな人たちがしゃしゃり出てくるからこそ、真の理解がいつま
で経っても進まないのです。
健常者をいくら攻撃しても、患者を理解したことには、決して、
ならないのです。
──────────────────────────────
発行者:media
──────────────────────────────
戻る