【マルクスとアインシュタイン】 vol.6


◎マルクス主義の実態(その4)

 (注)初読の方は、まず、vol.1〜5を必ず熟読して下さい。
     → http://mediax.hp.infoseek.co.jp/mm5/bn.htm

●具体性なし

 計画経済と言うからには、良い計画を立てる必要があります。
 まずい計画では、経済がめちゃくちゃになってしまいますからね。

 では、具体的にどんな計画を立てれば良いのでしょうか?
 どういう計画が良いと言えるのでしょうか?
 また、良い計画を立てるには、どうすれば良いのでしょうか?
 良い計画を立てるためのコツやポイントや解法は?

 呆れたことに、マルクス主義は、こうした肝心なことについて、
 何も教えてはくれないのです。
 まあ、一般論とか抽象論とかならあるのですがね。
 実際に実行するための計画を立てる際に必ず必要になってくるは
 ずの具体論が、ぜーんぜんないのです。
 これでは、計画経済を実践したくてもできません。
 一体、何のための経済論なんだか…。

 意外に思われるかもしれませんが、計画経済すなわちマルクス主
 義のこうした欺瞞を一番よく知っているのは、実は、東側の権力
 者たちなのです。
 なぜなら、彼らは、それを実践の場に移さなければならない立場
 にあるからです。
 でも、いざ実践しようとすると、具体的に何をしたらいいのかわ
 からない。
 こうして、嫌でもボロが見えてくる。
 それでも何とか体裁だけでも装おうと無理矢理計画を立てて実行
 するのですが、案の定、これが見事に失敗する!(笑)
 これが東側がたどった現実の歴史です。
 そこへいくと、西側では、実践の機会がないので、ボロは出ない。
 だからこそ、西側の文化人(学者、評論家、作家…)たちは、い
 つまでもマルクス主義的「ロマン」に浸っていられるわけです。

 だいたい、そんな「すばらしい計画」があるのなら、まず、その
 計画の具体的な内容を公表すべきなのですよね。
 そして、「この計画を実現するためには、社会をこう変えていか
 なければならないことになる。だから革命が必要なのだ。」とい
 う順序で話を進めるべきでしょう。
 ところが、マルキストたちは、「まず革命!」なのです。
 計画(の具体的内容)のことなど、二の次、三の次。
 まあ、もともとありもしない「すばらしい計画」など公表できる
 わけもないのですがね。


●だから反証されない

 何かを検証するためには、具体性がなければできません。
 具体的なことを示してくれなければ、何をチェックしたらよいの
 か、わかりませんからね。
 ですから、具体性がなければ、検証はできないのです。

 このことから、計画経済すなわちマルクス主義は、検証不可能で
 あることがわかるでしょう。
 御存知のように、検証不可能性は、疑似科学の特徴(の一つ)で
 す。
 検証不可能だから、反証されることもない。
 マルクス主義が、なぜ、今日まで生き残ってこれたか、これでお
 わかりになったと思います。
 こんなしょーもない科学(?)を肯定的な立場で研究(?)する
 連中のために、国民の納めた血税が使われてきたのですから、何
 とも、もったいない話です。

 私にとって非常に残念(?)でならないのは、村山内閣が計画経
 済的な政策をとってくれなかったことです。
 当時、日本経済は、バブル崩壊の影響で、壊滅状態でした。
 ですから、「計画経済は不景気に強い!」と学校の社会科の授業
 でしっかり(笑)と教えられた私としては、今こそ計画経済の本
 領を発揮すべきではないか、と思ったのです。
 せめて計画経済の良いところを部分的にでも取り入れてみるべき
 だ、と…。
 でも、期待は見事に裏切られました。
 村山内閣は、それすらしなったのです。
 まあ、自民党との連立で、しかも社会党は与党第二党だったせい
 ものあるのかもしれませんがね。
 でも、本当は、どんな計画を立てれば良いのか、わからなかった
 のではないでしょうか?

 そういえば、この村山内閣には、今にして思えば、そうそうたる
 顔ぶれがならんでいますねぇ。
 土下座外交を決定的にしたのも、この内閣。
 そして、ちょうどこの頃、大ブレイクしたのが、「懐疑精神」を
 売り物のにしながら、相対論は死ンデモ疑おうとしない「科学的」
 オタク集団「と学会」なのでした。
 これは単なる偶然でしょうか?
 確かに、その後、社会党自体は衰退の一途をたどるわけですが、
 そのウィルスがホシュやウヨクにまで散らばったことを考えると、
 これは決して一笑に付せる問題ではないと思います。


●だから何とでも解釈できる

 さて、具体性のないものは、何とでも解釈できることになります。

 多くの純真なマルキストたちは、マルクス主義のことを、未だに
 平等の思想だと信じています。
 確かに、指導者たちが、モーゼのような清く、正しく、無欲で、
 献身的で、謙虚な人たちだということを前提にするならば、マル
 クス主義は平等の思想と解釈できなくもありません。
 しかしながら、そうでない前提のもとでは、人権など微塵も認め
 ない、全くの独裁専制政治思想に解釈できてしまうのです。
 現に東側では、後者の解釈がとられていますよね。
 そもそも、「モーゼのような人間が、この世にどれだけいるか?」
 ということを考えれば、これは当たり前の結果だと言えるでしょ
 う。

 このように、具体性のないものは、何とでも解釈できてしまうの
 です。
 そして、また、それ故に、どうとでも発展させることができてし
 まうのです。
 理論屋の都合のいいように…。

 そして、実は、こうした特徴こそ、相対論や量子論に始まる近現
 代物理学が有する特徴そのものなのです。

 中世の暗黒時代を象徴するといわれる天動説では、理論と観測結
 果とのズレを埋めるために、周転円なるものが書き込まれていき
 ました。
 もし、周転円に関して、具体的な法則や原理、すなわち、それを
 規制するものがあったのなら、天動説は解決不可能な矛盾に陥り、
 もっと早くに崩壊していたかもしれません。
 そういう具体的な法則等がなかったために、周転円はいくらでも
 書き込むことができ、そのために天動説は生き長らえることがで
 きたのです。
 疑似科学にとって、具体性のなさが、いかに都合のよいことか、
 これでおわかりになったでしょう。
 そして、このことは、そのまま、相対論や量子論に始まる近現代
 物理学にも言えることなのです。
 詳しくは、(いつも言ってますが、)物理学の話が始まったら、
 お話しします。


──────────────────────────────
発行者:media
──────────────────────────────

バックナンバーへ