【マルクスとアインシュタイン】 vol.25


◎お詫び

 発行が長期間滞り、まことに申し訳ありません。
 …って、もう何回言いましたかね?
 本当に、すみません。
 眉唾環境論(⊃自然エネルギー利用論)批判に夢中になってしま
 いまして…。

 さて、今回は、久しぶりに本題の話をしようと思います。
 すなわち、vol.24の続きです。
 といっても、間があまりにもあきすぎてしまったので、復習を兼
 ねた話から始めたいと思います。
 このため、今までの内容と、かなり重複する部分もあるかとは思
 いますが、どうか御了承願います。


◎マルクス主義の実態(その23)

 (注)初読の方は、まず、vol.1〜24をお読み下さい。
     → http://mediax.hp.infoseek.co.jp/mm5/bn.htm


●視覚と科学

 科学は、現実〈事実)の世界を、その対象とするものです。
 ですから、まず、現実を把握・認識することが、その第一歩とな
 ります。
 そのためには、感覚に頼らざるを得ません。
 感覚無くしては、人間は何も把握・認識できないでしょう。

 感覚の中で、最も重要なのが、視覚です。
 視覚が発達した動物は、脳も非常に発達しています。
 映像という情報の処理には、高い情報処理能力が必要なことは、
 パソコンなどを使用していても実感できることでしょう。
 動物の視覚と脳との関係についても、同じことが言えるわけです。
 そして、脳が発達しているゆえに、賢くもなれるわけです。

 しかし、重要なのは、それだけではありません。
 視覚は、事実を把握・認識する上で、最も有効な感覚なのです。
 視覚以外の感覚、たとえば聴覚や嗅覚では、もの(生き物も含む)
 の位置・距離・形状・大きさ・運動…といったことは、(正確に
 は)把握・認識できません。
 触覚についても、触角などが届く、ごく狭い範囲のことしか、わ
 かりませんし、運動については、まず把握不可能でしょう。

 以上のことから、視覚がいかに重要な感覚であるかがわかるでし
 ょう。
 もし人類に優れた視覚という感覚能力がなかったら、科学も、高
 度な文明も、あり得なかったことでしょう。


●本当は見えない目

 このように、視覚は極めて有効な感覚なのですが、一方で、やは
 り限界というものが存在するものなのです。
 どんな感覚にも、限界はつきものなのです。

 視覚には、たとえば、見える大きさに限界があります。
 大きい方にも小さい方にも限界がある。

 ある大きさ以上のものは、見えない。
 視界とか視野といった限界ですね。
 ある限られた範囲のことしか見えない。
 その範囲の外のことは見えない。
 故に、その範囲の外のものとの関連に気付かない。

 一方、ある大きさ以下のものも、見えない。
 解像度以下の世界は、見えない。
 当然、構造もメカニズムもわからない。

 ま、そうした限界をわきまえているうちは、まだ良いのです。
 問題は、そうした限界をわきまえたがらない人たちが多いという
 こと。
 なまじ目が見えるばかりに、その限界を悟ろうとしないのです。

 特に、インテリ(だと自分のことを思っている人)は、プライド
 が高いために、そうなりがちですね。
 自分の目が見えていないことを悟ろうとしない。
 己の限界を認めたくない。
 そこで、奇妙な論理を展開する。
 たとえば、実在しないもの(や状態)をでっち上げ、そのせいに
 する。
 あるいは、構造やメカニズムに関する議論や探求の無意味さを説
 いて、ごまかそうとする。
 内部矛盾とか、確率統計的議論が、そのよい例です。


●視覚の限界は思考の限界

 彼らが、このような奇妙な論理を展開する(=屁理屈をこね回す)
 ことは、ある重要なことがらを示唆しています。
 それは、視覚の限界は、そのまま、思考の限界につながる…とい
 うことです。

 大きい方の限界を例に、説明しましょうか。
 人間は、見えている範囲のことしか考察の対象にしません。
 その外のことは考察の対象にしない。
 だからこそ、その範囲の外にあるものの関与に気付かないのです。
 その範囲内でしか考えようとしない。
 その範囲内に存在するもののことしか考えない。
 まさに、思考の限界なわけです。

 また、その限界ゆえに、誤った考え方に流れてしまう。
 この例で言えば、見える範囲内に、本当は外にあるものによる影
 響と同じ作用をするものの存在を仮定する。
 つまり、本当は実在しないもの(や状態)が存在することにして
 しまうのです。
 傍目の者からすれば、そんなものは、滑稽な妄想にすぎないです
 よね。
 そう言われると、思い当たる節があるでしょう。

 一方、小さい方の限界については、無気力で対処します。
 つまり、見えないものは考えたって無駄だ!というわけです。
 矛盾や確率統計処理でごまかそうとするのは、そのためです。
 これもまた、思考の限界となっているでしょう。

 このように、視覚の限界は、そのまま、思考の限界になるわけで
 す。


●多様スケール視のすすめ

 思考の限界は、人を誤った方向に走らせます。
 ならば、思考の限界に陥らないためには、どうしたら良いでしょ
 うか?

 これに関し、私は、「多様スケール視」という姿勢をおすすめし
 たいと思います。
 「多様スケール視」とは、私の造語で、いろんなスケールで物事
 を見よう(考えよう)とする姿勢のことを言います。
 具体的に言うと、より大きなスケールで見たり、逆に、より小さ
 なスケールで見たりすることです。
 そうすることによって、今まで見えてこなかったことが見えてく
 るようになるわけです。

 たとえば、より大きなスケールで見ると、今までは視界の外にあ
 ったが故に見えなかった関与物が見えてくるようになります。
 また、より小さなスケールで見ると、今までは小さすぎて見えな
 かった構造などが見えるようになります。
 こうして、より確かな思考が可能になってくるわけです。

 もちろん、望遠鏡などでも見えない大きな範囲のことや、顕微鏡
 などでも見えない小さな世界のことは、どう頑張ったって、見え
 はしません。
 ですが、肉眼に頼る場合よりは多くのことが見えてくる(→考え
 る)ようになるでしょう。

 意外と、人間というものは、肉眼で見える世界のことしか見てい
 ないものです。
 それ故、思考も、肉眼で見える範囲におさまってしまっているこ
 とが多いものです。

 否、もっと言うと、肉眼で見える範囲のことすら見えなくなって
 いるものです。
 社会主義者は、自分が重視している集団の外の世界が見えず、ま
 た、それより小さいもの、たとえば、個人のことも見えていませ
 ん。(∴考えない。)
 一方、物理学者は、自分が注目している範囲のことしか見えてい
 ませんし、解像度以下の構造も見えていません。(∴考えない。)
 ここに、20世紀の悲喜劇の最大の原因があるわけです。


●アートは単一スケール視の世界

 ところで、「多様スケール視」と対極の姿勢と言えるのが、「単
 一スケール視」という姿勢です。
 これまた、私の造語です。(念のため。)
 これは、特定のスケールでしか物事を見ようとしない姿勢のこと
 です。
 上で述べた社会主義者や物理学者の姿勢が、まさにそうです。
 彼らは、いろんなスケールで物事を見よう(考えよう)としない
 ために、あのような見方(考え方)しかできないのです。

 困ったことに、世の中には、「単一スケール視」が重要だ!(と
 いうより、そうすることが絶対に必要だ!)と説く分野が存在し
 ます。
 それが、芸術、すなわち、アートという分野です。

 たとえば、絵画を鑑賞する場合を考えてみて下さい。
 絵画を見る(鑑賞する)には、適切なスケールというものがある
 はずです。
 それより大きなスケールで見てしまうと、絵画は塵のような存在
 になってしまう。(∴価値のないものになってしまう。)
 また、それより小さなスケールで見てしまうと、絵画全体が見え
 ず(視界からハミ出す)、何の絵だかわからなくなってしまう。
 逆に、埃やアラなど、見えてもしょうがないものが目についてし
 まう。
 やはり、見るのにふさわしいスケールが決っているわけです。

 このように、アートの世界では、「単一スケール視」が重要なの
 です。
 これは、科学の中に取り入れるべき姿勢では絶対にないでしょう。

 ところが、そういうことをやっちゃった人たちがいるわけです。
 その代表的な一人が、アインシュタインなのです。
 彼が近接作用という考え方に固執し、相対論や量子論の世界にハ
 マっていったのも、こうしたアートの世界では常識的な「単一ス
 ケール視」の姿勢があったからなのです。
 これについては、物理学の話のところで説明したいと思います。

 マルクス主義…というよりも、社会主義にもまた、アートの「単
 一スケール視」の姿勢が、はっきりと見てとれます。
 もともと、主として、芸術の盛んなフランスで花開いた思想です
 からね。
 アートなところがあっても不思議ではないわけです。


●論理より調和

 アートは、感覚が偏重される分野です。
 視覚という感覚の限界を悟らない(=人間の感覚を過信し偏重す
 る)思想が、アートと共通の特徴を有しているのは、当然のこと
 でしょう。

 さて、アートの世界では、論理は大して重要視されません。
 むしろ、調和が重視されます。
 逆に言うと、調和しておれば、論理なんか、どうでもいいわけで
 す。
 ですから、どんなに矛盾していようが、混乱していようが、調和
 さえしていれば、一向にかまわない…というより、高く評価され
 るわけです。

 現に、「騙し絵」という芸術分野がありますでしょう。
 「騙し絵」の中には、現実的にはあり得ない世界が描かれている
 ものがありますよね。
 現実世界の法則とは全く矛盾している(無視している)にもかか
 わらず、見事に調和しています。
 マルクス主義も、近現代物理学も、まさに、こうした「騙し絵」
 の世界と同じ世界なのです。


●宣伝、偶像、虚栄心、ウケ、権威主義

 アートの世界には、宣伝がつきものです。
 なんだかんだ綺麗事をいったところで、宣伝がものを言う。
 メディアをフルに利用(活用)する。
 それが、アートの世界の現実(実態)です。
 そして、これは、マルクス主義や近現代物理学にも、そのまま言
 えることです。

 ちなみに、アングロサクソンは、宣伝が得意です。
 マルクスもアインシュタインも、有名にしたのは、アングロサク
 ソンです。

 アートの世界では、また、偶像がつきものです。
 偶像化や偶像崇拝が盛んに行われる。
 ま、もともと、「つくりもの」の世界なのですから、そうなるの
 も無理ないのですがね。
 で、これまた、マルクス主義や近現代物理学に言えることなので
 す。
 「天才アインシュタイン」は、まさに、そうですね。
 理論(や原理)そのものも、偶像崇拝の対象になる!

 アートの世界に見られる、もう一つの大きな要素が、虚栄心。
 理解しているふりをする。
 それも、最新のものを。
 これまた、マルクス主義や近現代物理学にも言えること。

 このように、とことんアートな世界なわけです。
 だからこそ、ウケるわけです。
 ウケも、アートの世界では重要ですからね。
 というか、もともと、ウケの世界ですから。
 これまた、マルクス主義や近現代物理学に言えること。
 「ポピュラー・サイエンス」という言い方がありますでしょう。

 大衆にウケなくても、認められてしまうのが、アートの世界。
 権威ある人が認めれば、価値が認められてしまう。
 逆に、権威ある人に認められなければ、隅に追いやられてしまう。
 権威主義の世界。
 これまた、マルクス主義や近現代物理学にも言えること。

 このように、現代科学の狂気の根源は、「単一スケール視」によ
 る感覚偏重というアートの世界の「常識」(笑)が流れ込んでき
 たことにあるのです。
 そして、忘れてはならないのは、アインシュタインが、本当はア
 ート系の人間であったという事実です。

                        (つづく)


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発行者:media
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