【マルクスとアインシュタイン】 vol.20


◇おわび◇

  毎度のことですが、発行間隔が隔月刊並に長くなってしまって、
  申し訳ありません。
  しかも、その分、メルマガの分量が多くなってしまって、これ
  また申し訳ありません。


◎マルクス主義の実態(その18)

 (注)初読の方は、まず、vol.1〜19をお読み下さい。
     → http://mediax.hp.infoseek.co.jp/mm5/bn.htm


●混同の達人

 マルクス主義の特徴の一つに、「混同」があります。
 だからこそ、支離滅裂な屁理屈をこね回すことができてしまうの
 です。
 そして、これは、相対論や量子論にも言えることなのです。
 そこで、今回は、彼らの「混同の達人」ぶりを中心に話を進めた
 いと思います。


●物質と精神の混同

 マルクス主義は、唯物論を気取っていますね。
 だから、人間も物質にすぎない。
 物質にすぎないために、拉致するのも、粛清するのも、餓死させ
 るのも、平気でできてしまうわけです。
 また、物質ゆえに、フェチに陥ることもある。
 だからこそ、偶像化や個人崇拝とかが行われるようになるわけで
 す。

 そんな調子ですから、人間の精神も物質的なものにすぎないわけ
 です。

 唯物論を気取ることで、「科学的!」と気取っているわけですね。
 ですが、真の唯物論からみれば、マルクス主義は似非唯物論にす
 ぎません。
 物質と精神を混同したカルトにすぎないのです。
 以下に、その根拠を示すことにいたしましょう。


●相互作用を考慮し尽くさない

 マルクス主義の中心的教義である弁証法的唯物論によれば、世界
 の本質は自ら運動し発展し続ける物質なのであり、精神もまた物
 質の発展の所産とされています。
 ですが、これは奇妙な論理です。

 まず、物質が運動するというところは良いのですが、自ら運動す
 るわけではありません。
 常に他と相互に作用を及ぼしあうことによって運動するのです。
 このことからして、まず科学無知・物理学無知であることがバレ
 てしまいます。
 ちなみに、こうした相互作用を十分考えようとしないという傾向
 は、相対論や量子論にも見られる傾向です。


●発展という主観性

 さて、次におかしいのが、物質が発展し続けるとしている点です。

 発展という概念は、人間の価値観と関係のある概念ですよね。
 どういうことを発展と呼ぶのか?、それは人間の価値観によって
 決まるものです。
 別の言い方をしますと、自然界における客観的事実なんかではな
 く、人間の主観性によって決まるものです。
 ですから、これは心理的なもの、精神的なものです。
 したがって、「発展」という言葉を用いること自体、物質の世界
 のことに、こっそり、精神的概念を持ち込む行為になるのです。
 そして、これは、物質と精神の見境がつかなくなっていることで
 あり、つまりは、物質と精神を混同していることになるのです。

 それだけではありません。
 何と、発展し続けるとしているのです。
 これには、人間の期待とか願望とが入り込んでいますね。
 実際には、物質は発展しないことがいくらでもあるのですから。
 あまりに人間的な教義です。
 ですから、これまた、物質と精神を混同していることになるので
 す。


●物質と状態の混同

 真の唯物論において、精神とは、物質ではありません。
 無数の神経細胞という物質の状態(振る舞い)なのです。

 ところが、弁証法的唯物論では、精神は、物質の発展の所産とさ
 れています。
 つまり、発展によって出来上がった「物」なのです。

 このことから、マルクス主義は、「物質」と「(物質の)状態」
 を混同している実態が見えてくるでしょう。


●弁証法の前提とは?

 弁証法的唯物論は、唯物論に、ヘーゲルの弁証法を掛け合わせて
 作られた教義です。(いわゆる批判的継承。)
 ヘーゲルの弁証法は、精神を全ての根源とする教義です。
 ですから、弁証法的唯物論も、精神と同類のものを全ての根源と
 しなければなりません。
 でなければ、弁証法は成り立たないでしょう。

 したがって、「弁証法的唯物論」では、全ての根源となるものが、
 「ヘーゲルの弁証法」におけるそれと、同じ類のものであるとみ
 なしていることになるはずです。
 ということは、「物質」と「精神」を、同じ類のものとみなして
 いる…ということでしょう。
 それは、言い換えれば、「物質」と「(物質の)状態」を、同じ
 類のものとみなしている…ということでしょう。

 このように、マルクス主義では、「物質」と「精神」、「物質」
 と「(物質の)状態」を混同しているのです。
 そして、「物質」と「(物質の)状態」の混同は、相対論や量子
 論にも見られる特徴なのです。


●矛盾にも種類がある

 弁証法では、「矛盾」が極めて大きな役割を果たします。
 ですが、物質の世界における矛盾と、精神の世界における矛盾と
 は、全く性質が異なるのです。

 物質の世界における矛盾は、「あり得ないこと」です。
 ですから、実際には起こりません。
 ゆえに、「自覚」されることもありません。
 実際に起こることなら、「矛盾」にはなりませんからね。
 もし矛盾が起こるとすれば、それは理論(考察)の上で、です。

 これに対し、精神の世界における矛盾は、「あり得ること」なの
 です。
 ですから、実際に起こることがあります。
 だからこそ、「自覚」されるのです。
 ついでに言うと、人間は、それを何とか「総合」しようとするの
 です。

 このように、同じ「矛盾」という言葉でも、物質の世界における
 それと、精神の世界におけるそれとは、全然違うのです。
 精神の世界の矛盾は、「あっち立てれば、こっち立たず」という
 人間の都合からくるものです。
 とにかく、こうした違いがある限り、精神を根源とする(ヘーゲ
 ルの)弁証法を、物質を根源とする唯物論に応用することなど、
 できるわけがないでしょう。
 例によって例のごとく、理論が成り立つための前提を無視した屁
 理屈の世界…。
 でなければ、精神と物質の違いを無視する=混同する行為でしょ
 う。
 このことからも、物質と精神(=物質の状態)の混同ぶりがわか
 ると思います。


●答えがわかっているからこそ…

 弁証法的唯物論では、さらに、物質は、その内部矛盾を原動力と
 して発展する…と説いています。

 矛盾を原動力とするという考え方は、おそらく背理法(帰謬法)
 を装っているつもりなのだろうと思われます。
 背理法とは、おおざっぱに説明しますと、ある命題が真であるこ
 とを証明するのに、その命題とは異なる仮定をすると矛盾するこ
 とを示すことで、その命題が真であることを示す証明法ですね。
 そこで、次のような理屈をこねるわけです。
 「Aという現象が起こるのは、Aという現象が起こらないと仮
  定すると、内部矛盾することになってしまうからだ。」
 なるほど、これなら矛盾という概念が登場し得ますね。
 しかも事実を尊重してます。

 でも、これは全く空虚な論理です。
 なぜなら、最初から(Aという現象が起こるという)答え(事実)
 がわかっているからこそ成り立つ理屈だからです。
 別に矛盾が(現象を起こす)原動力になっているわけではありま
 せん。

 このように、弁証法的唯物論による説明は、最初から答えがわか
 っているからこそ可能な説明にすぎないのです。
 こうした特徴は、天動説における周転円の書き込みにも見られま
 す。
 天体の実際の(見かけ上の)運動がわかっているからこそ、書き
 込めるのですね。
 これは、要するに、演繹に帰納の要素を持ち込む行為です。
 そして、こうした特徴は、相対論や量子論にも見られる特徴なの
 です。


●隠れオカルティズム

 そもそも、矛盾という概念は、人間が定めた概念です。
 矛盾は、人間にとっては、気に入らないことですよね。
 ですから、それを原動力にするということは、人間的なもの、す
 なわち、精神の世界の概念を、物質の世界に持ち込むことになる
 わけです。
 何ともオカルト的です。

 さらに気付いて欲しいのは、単に「矛盾」となっているのではな
 く、「内部矛盾」となっていることです。
 つまり、外からは見えない矛盾なわけです。
 ですから、人間には自覚できない(=観測・観察できない)矛盾
 なわけです。
 ということは、少なくとも直接的な検証は不可能ってことです。
 こんなものが科学のはずがありません。

 これは、要するに、決して人が覗くことはできない世界がある…
 ということです。
 そして、こうした特徴は、相対論や量子論、特に量子力学にも見
 られる特徴なのです。

 それにしても、「内部矛盾」とは、あまりにも「内なる世界」志
 向が強いですね。
 まるで「心理学オタク」のようです。(笑)
 やはり、オカルト的!
 そういえば、相対論や量子論の信者たちは、心理学や精神医学を
 振り回して論敵を攻撃するのが大好きです。
 こういうところも、マルキストたちにそっくりです。

 だいたい、物質の世界のことに、精神的要素を持ち込むこと自体、
 オカルトの証拠なのですよ。
 私は、こういうのを、「隠れオカルティズム」と呼んでいます。


●夢やロマンを可能と信じ込ませるトリック

 人にとって、矛盾は気に入らないものです。
 その矛盾が発展の原動力になるのだとしたら、これは素晴らしい
 ことでしょう。
 「気に入らない」と思うだけで、困難が解決されることになるわ
 けですから。
 夢やロマンを可能と信じ込ませるには、最高の洗脳術と言えるで
 しょう。

 唯物論に精神的要素を持ち込むのは、そのためです。
 物質的には絶対に不可能なことでも、精神的要素が加われば、実
 現可能であるように思えてくる。
 そう、アニメでよく出てくる「信じる心さえあれば…」っていう
 あれです。
 奇跡だって何だって起こる!
 何しろ、「女の一念」は「岩をも通す」そうですから、精神のパ
 ワーとはすごいものです。(笑)
 弁証法的唯物論が、(本当は実現不可能な)理想郷を信じ込ませ
 るのに大いに役立つことが、これでわかるでしょう。

 ちなみに、唯物論に精神的要素を持ち込んで、不可能を可能であ
 るかのように信じ込ませる手口は、いわゆる「ポピュラー・サイ
 エンス」に共通して見られるものです。

 例えば、進化論。
 「(生物が)○○を進化させた」という表現は、明らかに、物質
 の世界に精神の働きをもち込んでいる証拠でしょう。

 唯物論に精神的要素を持ち込むことは、さらに、矛盾の克服(?)
 にも役立ちます。
 まるで観念論のように、矛盾する両者を「総合」できることにな
 るわけです。
 これは、主として、相対論や量子論に見られる特徴です。
 つまり、精神の働きによって、(物質的には)「矛盾しているこ
 と=あり得ないこと」を、「あり得ること=矛盾が無いこと」と
 信じ込ませることができるわけです。
 これが、いわゆる「常識を疑う・常識が間違っている」の正体な
 のです。


●政治活動の道具

 唯物論を装うことは、自然科学に疎い文系の論客を黙らせるのに
 役に立ちます。
 また、思想・政治・経済・社会問題などに疎い理工系の人たちに
 親近感を抱かせ、彼らを勧誘するのにも役立ちます。

 こうした様は、オウム真理教が、若者を信者として勧誘するため
 に、オカルトや超常現象、陰謀説、ロック歌手の謎の死…などを
 利用したのとよく似ています。
 実際、オウムが目指していたのは、革命でしょう。
 幹部のエリートには、近現代物理学に通じていた人もいました。
 そう、本当は、相対論や量子論こそオウム的なのです。


●法と法則の混同

 話を「混同」に戻しましょう。

 マルキストたちによく見られる、もう一つの混同は、法と法則と
 の混同です。
 法は、人が作ったものです。
 ゆえに、人が変えることが可能です。
 これに対し、法則は、自然の摂理で、人間が変えることはできま
 せん。
 マルキストたちは、この両者の見分け(区別)がつかないのです。

 現実無視の護憲固執も、これで説明がつくでしょう。
 彼らは、決して反戦平和主義者などではありません。

 ま、そんな調子ですから、彼らは「人が作ったもの」を、絶対的
 ・普遍的な法則のごとく、ものすごくありがたがるわけです。
 その結果、偶像崇拝に陥るわけです。
 特に酷いのが、原理への崇拝。
 ゆえに、権威には、ものすごく弱いのです。

 さて、こうした特徴は、相対論や量子論を盲信している物理学者
 ・科学者たちにも、そのまま言えることです。
 彼らは、原理や理論をありがたがります。
 事実や現実よりも、頭の中の世界こそが絶対だと信じています。
 そして、権威主義的!
 あまりにそっくりです。


●感覚と実証主義

 ところで、マルキストたちは、実証主義という言葉を、まこと軽
 々しく口にします。
 そして、自分たちは実証主義者であるかのように、ほざきます。

 ですが、実証主義というのは、言うが易く行うが難しの典型みた
 いなものです。
 なぜなら、感覚や解釈の問題がつきまとうからです。
 どう感じる(認識される)か?
 どう解釈するか?
 そこに、どうしても人間の主観的要素が入り込んでくるのです。

 北朝鮮を見学した新聞記者や作家、政治家たちが、いかに誤った
 姿を日本に伝えてくれたことか。
 実証主義の難しさを物語る、よき教訓でしょう。
 実証主義者を気取る奴ほど、実証主義の難しさを知りません。
 ですから、実証主義者を気取る奴ほど、実は、実証主義者からは
 ほど遠い人物である場合がほとんどなのです。

 同様のことが、相対論や量子論を盲信している物理学者・科学者
 にも言えます。
 「実験や観測によって、余すところなく確証されている」とは、
 よく聞くセリフです。
 でも、実際には、全く間接的な状況証拠だったりする。
 しかも、理論値からかなりずれてたりする。(それを誤差である
 とごまかす。)
 これが実態なのです。


●イギリスという国

 ところで、マルクス主義とポピュラー・サイエンスの関係を探る
 上で、どうしても知っておかなければならないことがあります。
 それは、イギリスという国が果たした役割です。
 ズバリ申し上げましょう。
 マルクス主義や(文化マルキシズムである)ポピュラー・サイエ
 ンスに力を与えたのは、イギリスです。
 イギリスが、これら疑似科学を世界中に蔓延させる原因を作り出
 したのです。

 マルクスはドイツ(系ユダヤ)人ですが、「共産党宣言」が公刊
 されたのは、亡命先のロンドンです。
 ダーウィンは、イギリス(系ユダヤ)人。
 アインシュタインを有名にしたのは、イギリスの科学者エディン
 トンでした。
 ことごとく、イギリスがかかわっているのです。
 この点に大いに注目すべきです。

 では、なぜイギリスは、(文化)マルキストをヨイショしたりし
 たのでしょうか?
 それは、初期の(文化)マルキストにユダヤ人が多かったからで
 す。

 では、なぜ、ユダヤ(人)をヨイショしたのか?
 それは、おそらく、ユダヤの豊富な資金目当てです。
 中東(パレスチナ)問題の元凶となってしまっている近代シオニ
 ズムも、イギリスが煽ったものです。
 「紳士の国」などと呼ばれるイギリスですが、アヘン戦争などを
 見てもわかるように、結構ヤバイことをやってる国なのです。

 とにかく、相対論・量子論・進化論…といったポピュラー・サイ
 エンスが、文化マルキシズムであることを理解するためには、ま
 ずイギリスという国が果たした役割について知る必要があります。

 このことがわかると、BBCがポピュラー・サイエンスをヨイシ
 ョしたがる理由も見えてくるでしょう。
 そして、BBCの猿真似をしているのが、我が国の公共放送であ
 る「みなさまの」NHKなのです。
 単に(国鉄などと同様に)国営だからということで赤いのではあ
 りません。


●混同と痴呆

 痴呆症(認知症)の症状で、意外と話題にされないものに、記憶
 の混同があります。
 あることに関する記憶と、別のことに関する記憶とが、混同・混
 乱・交錯してしまうのです。
 ですから、上で述べたマルクス主義に見られる混同ぶりを見ると、
 痴呆にそっくりと思えてならないのです。

 実際、彼らには、記憶の混同がよく起こります。
 たとえば、最近の朝日新聞。
 自分が「政治介入があった(でしょう)」と言ったのに、取材し
 た相手が言ったと記憶してるわけですね。
 これこそ、痴呆症患者に見られる記憶の混同そのものです。
 そして、朝日といえば、北朝鮮とアインシュタイン相対論を大い
 にヨイショしてきたメディアであります。

 痴呆の、より一般的な症状は、「物忘れ」です。
 (文化)マルキストたちは、自分が言ったことも覚えていません。
 都合の悪い事実も覚えていません。
 自分が前提としたことも覚えていません。
 それゆえ、前提を無視した論理が展開できてしまう。

 こうしてみると、痴呆は、(文化)マルキストの特徴そのもので
 あることがわかるでしょう。
 だからこそ、差別語に指定されてしまったのです。
 そう、差別語とは、(文化)マルキストの特徴を表す言葉なので
 す。
 この世のことは、全て、(文化)マルキストの都合で決められる。
 この事実に、驚くほど多くの人たちが、未だ気付いていません。
 これは本当に困ったことです。


●弁証法の乱用…矛盾をごまかすトリック

 話をまとめてみましょう。
 精神の世界の矛盾には、矛盾する両者が同時に起こり得るという
 特徴があります。
 ゆえに、両者を総合することが(まだ)可能なのです。
 これに対し、物質の世界の矛盾には、矛盾する両者は同時には起
 こり得ないという特徴があります。
 ですから、総合などできるわけがないのです。

 そこで、それを無理矢理可能にするために、弁証法が乱用される
 わけです。
 つまり、弁証法的唯物論は、矛盾を矛盾ではないと信じ込ませる
 ためのトリックなのです。
 別の言い方をしますと、矛盾や、一貫性のないダブル・スタンダ
 ードを、弁証法の乱用により総合することで、ごまかしている思
 想なのです。
 こんなものは、疑似科学以外の何ものでもないでしょう。

 弁証法の乱用は、相容れないものを融合することを可能にします。
 ゆえに、疑似科学をでっち上げる上では、非常に有効です。

 たとえば、演繹と帰納を総合することが可能です。
 これにより、演繹に帰納の要素を持ち込むことが可能になります。
 (上でも述べた)天動説の周転円の考え方は、まさにそうです。
 このことから、マルクスやアインシュタインらは、天動説的思考
 を復活させた人物と言うことができるでしょう。

 事実と伝聞(憶測)を総合することも可能です。
 「間違いのない明白な事実であろうと思う」とは、NHK番組政
 治介入を告発したプロデューサーの説明です。

 男女の性に弁証法を乱用すると、どうなるでしょう?
 ウラヌスですか?
 ジェンダー・フリー・オタクたちが喜びそうな話ですね。

 このように、弁証法の乱用は、(文化)マルキシズムに共通する
 特徴なのです。
 弁証法の乱用により、矛盾する相容れないものどうしを融合して
 しまうのです。
 もっとも、傍目の者からすれば、こんなものは、単なる「混同」
 にすぎないのですがね。


●無神論を気取っていながら…

 (文化)マルキストには、無神論者を気取る人が多いですね。
 確かに、彼らの世界には、神は登場しません。
 そのかわり、神に相当するものが存在します。
 たとえば、「論」とか「原理」とかです。
 「証拠」より「論」の世界。
 これらが、神の代わりを果たす絶対的なものとなるのです。
 おまけに、物質の世界に精神の要素をもち込んで、奇跡を正当化
 する。
 そのため、結局、宗教とかわらなくなってしまう。
 つまりは、カルトの世界ですね。
 セクトとカルトが似てくるのは、当然のことなのです。

 ちなみに、実践の場では、偶像化された人間が神(の代わり)と
 なります。
 そのことは、共産圏の国を見ればわかるでしょう。

 相対論や量子論の世界も同じです。
 否、もっと酷いかもしれませんね。
 たとえば、アインシュタインなどは、「神」という言葉を露骨に
 口にしていましたし。
 現代の宇宙論者たちも、「偉大な意志の存在」とか、挙げ句の果
 ては「神の声を聞く」などと平気でほざきますし。
 科学なのか宗教なのかわからない状況です。
 だからこそ、ポピュラーなサイエンスになるのでしょう。(笑)

 無視論を気取っていながら、結局、最後は「神頼み」。
 これが、彼らの言う「科学」の実態なのです。


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発行者:media
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