【マルクスとアインシュタイン】 vol.17


◇おわび◇

  先月は一度も発行できず、申し訳ありませんでした。m(_ _)m


◎マルクス主義の実態(その15)

 (注)初読の方は、まず、vol.1〜16を必ず熟読して下さい。
     → http://mediax.hp.infoseek.co.jp/mm5/bn.htm


●創造性が無いゆえの依存

 前回指摘しましたが、マルキストたちは、権威ある人の考えを部
 分的に批判する形で継承するのが大好きであり、得意でもありま
 す。
 それ故、彼らの主張は、一貫性の無い、支離滅裂なものになって
 いるわけです。

 それはともかく、なぜ、部分的にとはいえ、批判するほど気に入
 らない考えを継承したりするのでしょう?
 いっそ、一から全て自分で考え出せば良さそうなものを…。

 実は、ここに、マルキストたちの欺瞞が隠されているのです。

 ズバリ申し上げますと、彼らは、一から全て自分の頭で考え出す
 能力や気力が無いのです。
 だからこそ、部分的にでも、他人のアイデアを拝借する必要があ
 るわけです。
 つまり、自分で考えることができないので、他人のアイデアに頼
 っているわけです。
 いわゆるコピペやパクリの類ですね。

 もっとも、単なるコピペやパクリでは、ただの盗作や猿真似にな
 ってしまいます。
 そこで、他人との差別化のために、部分的に批判し継承するなん
 てことをするのです。
 なかなか賢いでしょう?(…って、褒めてる場合か、おいっ。)

 要するに、本当は創造性などこれっぽっちも無い人たちなのです。
 また、だからこそ、「天才」などのオカルト用語を用いて、教祖
 や同志のことを飾り立てる虚構の手段に訴えたりするわけです。
 それでも…、否、だからこそ、アホなマスコミや作家連中には大
 変ウケがいいのです。

 ちなみに、マルキストたちは、大変な読書家です。
 彼らの正体を知らない人たちは、それを勤勉さの証しと勘違いし
 てしまいます。
 でも、本当は、(部分的な)コピペやパクリのために、ネタ集め
 に必死になっているだけなのです。


●最後は主客転倒のハチャメチャ状態に

 部分的に批判し継承するというやり方は、その場しのぎのやり方
 としては通用するのかもしれません。
 しかしながら、一貫性が無いわけですから、結局は辻褄の合わな
 い、矛盾だらけのものになってしまいます。

 そこで、こうした矛盾を解消(?)するために、御都合主義的な
 (屁)理屈やら原理やらが、天動説における周転円のごとく、恣
 意的に、次々と捻り出されることになるわけです。
 そして、そんなことをしているうちに、そうした補正(?)のた
 めの部分が、とてつもなく大きな比重をもつようになってしまう
 のです。
 その結果、「もともと、何を前提としていたのか?」とか「何が
 目的だったのか?」といったことさえわからなくなるような、主
 客転倒のハチャメチャ状態に陥ってしまうのです。

 もっとも、信者たちには、それが「複雑・高度ゆえ難解な権威あ
 る高尚な理論」に見えてしまうのですから、笑えます。
 また、そこに至るまでの過程を、「矛盾を原動力にした発展=進
 化」と信じているのですから、何ともおめでたい話です。
 そう、「鰯の頭も信心から」なのです。

 酷い時には、(当初の)「前提」や「目的」を否定してしまう場
 合さえあるのです!

 自分できちんと考えず、他人のアイデアを部分的に流用するよう
 なセコイことをやっているから、こんなことになってしまうので
 す。
 こんなものは、お世辞にも「論理的」と言えるものではありませ
 ん。
 ま、モダン芸術にはなり得るのかもしれませんが…。


●部分「まあまあ」、全体「ガタガタ」

 マルキストたちの主張を聞いていると、各部分部分は一見もっと
 もらしいことを言っているように思えてしまうものが少なくあり
 ません。
 つまり、それぞれの件だけに関して見れば、あたかも筋が通って
 いるかのように思えてしまうのです。

 ところが、全体を通して(つなげて)みると、支離滅裂なのです
 よね。
 ですから、広く物事の全体を見ようとする人は、騙されにくいよ
 うです。
 逆に、部分(や特定の項目)にこだわる人・とらわれる人は、非
 常に騙されやすいようです。

 ちなみに、こうした欺瞞を隠すのに最も効果的なのが、「みんな
 違ってて、みんないい」という教義です。
 これは、あっちもこっちも立てて、矛盾に関心が行かないように
 する…というトリックです。
 最近、マルキスト教育者たちの間で流行ってますよね。

 このように、部分部分を見る限りにおいては良く見えるのに、全
 体を通して見るとガタガタなのは、あちこちから他人のアイデア
 を部分的に流用するというセコイことをやっているからなのです。


●始点は「○」だが、その後は「×」

 さて、この「部分まあまあ、全体ガタガタ」という特徴は、少し
 変わった形で現れることがあります。

 たとえば、「問題提起の部分は良いのだが、その後の部分がメチ
 ャクチャ」というふうにです。
 実は、これも、マルクス主義の特徴なのです。

 例として、教祖マルクスの主張を思い出して下さい。
 彼の主張は、資本主義・自由主義に対する問題提起から始まって
 います。
 資本主義・自由主義にも悪いところがあるのは事実ですから、こ
 のこと自体は極めて正しいことだと言えるでしょう。
 ところが、その後の部分が全くいただけないのですね。
 話が途中から、どんどん、おかしな方へと行ってしまう。
 いたずらに資本家(資産家)ばかりを悪者扱いし、理想郷の世界
 へとひきこもってゆく…。
 特に、資本主義・自由主義に代わる対案については、全然、お話
 にならない疑似科学です。

 このように、「始点は良いが、その後がダメ」というのが、マル
 キストたちの主張に共通する特徴なのです。
 そのために、彼らは全く誤った結論に到達してしまうのです。


●横取り、略奪、陵辱

 では、なぜ、始点の部分は正しいのに、その後の部分がダメなの
 でしょうか?

 その理由は、いたって簡単です。
 それは、始点となるものが、他人のアイデアだからです。
 だから、始点の部分は正しい。
 ところが、その後の部分が、全くの自己流。
 しかも、上で述べたように、他人のアイデアを部分的に流用する
 ような、一貫性の無くなるようなことをする。
 それで、話が、どんどん、おかしな方へと行ってしまうのです。

 要するに、彼らは、他人のアイデアを「横取り」しているのです。
 それを「自分たちのアイデア」ということにしてしまう。
 お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの…というわけですね。
 これでは、ただの「略奪」です。
 しかも、彼らは、人から横取りしたアイデアを、すっかりおかし
 なものにしてしまうのです。
 これは「陵辱」でしょう。

 こんな監禁強姦魔のような連中が、学問やメディアの世界でのさ
 ばってきたのです。(今ものさばっている!)


●ある見方では「○」でも、別の見方では「×」

 「部分まあまあ、全体ガタガタ」という特徴が少し変わった形で
 現れた別の例として、「ある観点から見ると正しく見えるが、別
 の観点から見ると、実は全くの大嘘!」というのがあります。
 これもまた、マルクス主義に見られる特徴の一つです。
 このため、ある特定の立場や角度から見てもらえるうちは、「ま
 とも」と見られても、別の(様々な)立場や角度から見られると、
 たちまち、その矛盾や疑似科学ぶりがバレバレになってしまう…
 ということになるのです。

 この欺瞞を隠蔽するために、彼らは主に以下のような二種類の悪
 知恵を駆使します。

 一つ目は、「別の見方・考え方」を死ンデモ許さないことです。
 これは、画一性や、選民思想、偶像崇拝につながるものです。
 また、そのために、「そんな見方・考え方をするのは、右翼か、
 反ユダヤか、異常者」といった誹謗中傷をしたりもします。
 マルキストたちは、こういうの、得意ですよね。

 二つ目は、逆説的に聞こえるかもしれませんが、「多様性」とか
 「多元性」といった概念を悪用することです。
 これは、より世俗的な言葉で言えば、「個性」とか、「自己の信
 念」とか、「自分らしさ」とかに相当するものです。
 具体的には、「あなたにとっては間違いでも、別の人にとっては
 正しいことなのだよ」と説教する教義です。
 これもマルキストたちの十八番ですよね。

 ちなみに、先ほど述べた「みんな違ってて、みんないい」という、
 矛盾から関心をそらそうとするトリックもまた、多様性や多元性
 を悪用したものです。


●マルキストたちのアイテムと化した物理学

 アイテムという言い方が正しいのかどうかはわかりませんが、ア
 ニメ・ファンの方なら、こうした言葉の使い方は理解していただ
 けるでしょう。
 今や、物理学(のある分野)は、完全に、マルキストたちのアイ
 テムと化してしまっているのです。
 だからこそ、朝日やNHKといった赤軍系メディアは、これを盛
 んにヨイショしているのです。
 事実、今回述べたことは、全て、相対論や量子論に始める近現代
 物理学にも言えることなのです!

 誤解の無いようにお断りしておきますが、物理学という学問その
 ものがもともとマルクス主義的なものなのだ、と言っているわけ
 では決してありません。
 物理学がマルクス主義に汚染され支配されている、と言っている
 のです。

 相対論や量子論に始める近現代物理学は、文化マルキシズムその
 ものです。
 特に今回述べた「みんな違ってて、みんないい」という教義は、
 近現代物理学の二本柱である相対論や量子論の教義そのものなの
 です。

 このように、疑似科学政治思想は、疑似自然科学と、相互に力を
 増し合う関係にあるのです。
 特に、マルクス主義の場合は、「科学的」と気取る(似非)唯物
 論の世界なのですから、この傾向は一層強まるのです。
 したがって、国家や組合などが潰れても、そのアイテムである疑
 似自然科学が存在し続ける限り、滅び去ることは絶対にないので
 す。
 こうした現実が認識できれば、物理学における神話やブームが、
 単に物理学とか科学だけの問題ではないことが、おわかりいただ
 けるのではないかと思います。


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発行者:media
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