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        『科学』という思想信条

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≪反エコ(環境)ファッショ特集 【8】≫

 もう半年以上、配信が止まってしまい、申し訳ありません。
 相変わらず、時間がありません。
 ということで、今回も予定とは少し違った話をします。
 つまり、自然科学の話というよりは、自然科学の背景となる科学思
 想に関する話です。

 ということで、今回もよろしくお願い申しあげます。

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<自然エネルギー利用の有害性を理解できない理由>

 今回から、多くの人たちが自然エネルギー利用の有害性を理解でき
 ない理由というものを探ってみたいと思います。
 その理由は、決して一つではありません。
 ですから、当メルマガで触れないものもあるかと思います。
 ですが、『これだけは最低限知っておいてもらいたい』というもの
 については、全て取り上げるつもりです。

 自然エネルギー利用は、(もう何度も言っているように)自然を破
 壊する「人間活動」なのです。
 それも、最も直接的に自然を破壊する犯罪行為なのです。
 なのに、呆れるほど多くの人たちが、この科学的事実を理解出来な
 いでいるのです。
 これは一種の社会病理現象と言ってもいいほどのことではないかと
 思います。
 そこで、この問題を取り上げることにしたわけです。

 日本人は、自然と共生してきました。
 自然に出来るだけ負担をかけないようにしてきたのです。
 なのに、自然エネルギー利用の有害性が理解できなくなっているの
 は、やはり日本人が白痴化しているためだと思われます。
 では、何が日本人を白痴化させたのでしょうか?

 その一番の原因は、『日本人の欧米人化』であろうと思われます。
 何しろ、欧米人は『自然を支配する』ことを文化にしているわけで
 すからね。
 ですから、自然エネルギー利用には全く罪意識が無いのです。
 従って、日本人が欧米人化すれば、欧米人と同様に、罪意識が無く
 なってしまうのことになるわけです。
 特に学生運動世代の人たちは辱日的で欧米崇拝志向が病的なまでに
 強い人が多いのですから、そうなるのは当然のことです。

 しかし、原因(理由)はそれだけではないのです。
 それ(注:一つではありません。念のため。)をこれから述べてい
 きたいと思います。

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<エネルギーを「つくる」ことは出来ない>

 でも、その前に、自然エネルギー利用の有害性について、復習して
 おきたいと思います。

 少しでも物理学を勉強すればわかるように、人はエネルギーを「つ
 くる」ことは出来ません。
 そんなことが出来たとしたら、まさしく「無からの創造」を実現し
 たことになります。
 「無からの創造」などということが出来るのは、神だけです。

 エネルギー保存則がある以上、エネルギーを「つくる」ことは出来
 ないのです。
 エネルギーを「つく」れたとしたら、この世の全エネルギー量は、
 「つく」った分だけ増えてしまい、「つくる」前のエネルギー量と
 等しくなくなるので、エネルギー保存則は成り立たなくなってしま
 います。
 従って、フリーエネルギーの信者でもない限り、そんな教義は絶対
 に受け入れられない…はずなのです。

 余談ですが、同様の理由で、電気を「つくる」ことも出来ません。
 呆れたことに、Yahoo!や一部の住宅メーカーは、「電気をつ
 くる」などと言っているようですが、あれは全くのニセ科学的教義
 です。
 モラルが低いのか?、それとも無知なのか?

 何度でも言わせていただきますが、エネルギー(や電気)を「つく
 る」ことは絶対に出来ません。
 「では、どうやってエネルギーを生産しているのか?」というと、
 他の形態のエネルギーを変換するという形でエネルギーを得ている
 (生産している)のです。
 つまり、本当は「エネルギー変換」とでも言うべきところを、経済
 学者などの文系人間たちが「エネルギー生産」と(自然科学的には
 不適切な言い方で)言っているだけのことなのです。

 言葉というものは、「どういう人が使うのか?」によって意味や使
 われ方が違ってくることがよくあるものです。
 そういう違いがあることを理解しない愚か者が多いわけです。
 まったく、困ったものです。

 もう一度言いますが、「エネルギー生産」とは、エネルギーを「つ
 くる」のではなく、他の形態のエネルギーを変換して自分たちが希
 望する形態のエネルギーを得ようとする行為なのです。
 ですから、他の形態のエネルギーは、確実に失われていくことにな
 るのです。

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<エネルギーは状態そのものでもある>

 ということは、自然エネルギー利用は、自然エネルギーという形態
 のエネルギーを無くして(減らして)しまう行為…ということでし
 ょう。
 そのことに気付けば、自然エネルギー利用が自然環境に対する犯罪
 であることにも気付くはずです。

 まず、自然エネルギーが果たしている役割を失わせますね。
 たとえば「風(力)」に関して言えば、風が果たしている役割を失
 わせることになります。
 具体的に言うと、熱交換や、H2Oをはじめとする様々な物質の運搬
 などです。
 それらは、自然の状態を維持する上で欠かせないものです。
 それを失わせれば、自然は壊れてしまうでしょう。

 それに、実は、「自然エネルギーとは、自然の状態そのものでもあ
 る」と言うことも出来るのです。
 上の話と同じく「風」を例に説明しましょう。
 風力エネルギーは、風の実体である空気の『質量』と『速度の大き
 さ』から求まります。
 「E=(1/2)mv^2」(注:「^」は累乗を表す。)という式、御
 存知の方も多いでしょう。
 「v」すなわち『速度の大きさ』は、「空気の(運動)状態」と言
 えます。
 そして、上の式からもわかるように、「E」が変われば、「v」す
 なわち「空気の状態」も変わってしまうのです。
 ですから、自然エネルギーは自然の状態そのものでもあると言うこ
 とが出来るのです。
 そもそも、エネルギーとは、人間が状態量から定義したものなので
 すから、そういうことになって当然なのです。

 自然エネルギーを利用すれば、自然の状態(の一つである「空気の
 状態」)も変わってしまいます。
 自然の状態が変わるということは、自然が破壊されたということな
 のです。
 その状態は、もはや、自然な状態ではないのですから。
 従って、この点からも、自然エネルギー利用は自然破壊であるとい
 うことになるのです。

 え?、「風なんて、命の無いものなのだから、自然ではない。」で
 すって?
 だったら、なぜ「自然エネルギー」というのですか?
 『命のあるもの』だけが自然なのではないはずです。
 見苦しい言い訳は、自己矛盾という恥を自ら露呈することになるだ
 けです。

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<欧米人の「無」は曲者>

 では、なぜ、欧米人や欧米人化した日本人は、科学的には明らかに
 事実である『自然エネルギー利用の有害性』を理解できないのでし
 ょうか?
 その理由は、(先ほども述べたように)一つではありません。
 少なくとも二つはあります。
 そこで、今回は、そのうちの一つについて指摘しておきたいと思い
 ます。(二つ目は、説明が非常に長くなるので…。)

 では、その一つ目の理由とは、一体、何なのでしょうか?
 それは、欧米(西洋)人の言う「無」(という概念)が、たいへん
 曲者である…ということです。

 日本人は、「無」というと、何もない状態を考えますでしょう。
 ところが、欧米(西洋)人の場合は、そうではないのです。

 いや、日本人だって、本当は何も無い状態ではないのに「無」と表
 現する場合がありますよね。
 たとえば、田舎の道をドライブした時、周りの景色に退屈してくる
 と、「何も無いねぇ」と言ったりすることがあるはずです。
 実際には草木や岩、川、大地などがあるのですから、本当は「無」
 ということはあり得ないはずです。
 でも、「無」と表現しますよね。

 で、欧米(西洋)人は、その度合いが、日本人よりも酷いのです。
 本当は何かがあるのに「無」と表現したがるのです。

 実は、そのことは、西洋のキリスト教文化である「無からの創造」
 という表現にもあらわれているのです。
 (旧約)聖書の創世記の部分を読んでみて下さい。
 「無からの創造」などという類の表現は、出てこないはずです。
 手元の日本語の聖書でも、「はじめに、神は天地を創造された。」
 から始まっています。
 つまり、「まずはじめに、無という状態があった。」などとは書か
 れていないのです。

 人の創造については、もっと露骨です。
 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その
 鼻に命の息を吹き入れられた。」とあります。
 これは、明らかに、「無からの創造」を反証する記述でしょう。

 では、なぜ、欧米(西洋)人たちは、「無からの創造」などという
 言い方をするのでしょう?
 欧米(西洋)人はいい加減だから?
 まぁ、(欧米人化していない)日本人から見れば、それも理由にな
 り得るのかもしれません。
 ですが、もう一つ、大きな理由があるのです。
 それは、欧米(西洋)人の「無」の定義の問題です。

 先ほど例をあげたように、日本人だって、本当は何も無いわけでは
 ないのに「無」と表現することがあるのです。
 欧米(西洋)人も同じです。
 ただ、その度合いが、日本人よりも酷いのです。
 欧米(西洋)人にしてみれば、『土の塵』は、とるに足らないもの
 であり、従って、そんなものは、あっても「無」に等しいわけなの
 です。
 だから、「無」とみなしてしまう(「無からの創造」ということに
 してしまう)のです。
 これが、欧米(西洋)人流の「無」に対する考え方なのです!

 このことがわかれば、欧米人が「風力」などの自然エネルギー利用
 に罪意識を覚えないことも、理解できるようになるはずです。
 欧米人にしてみれば、「風力」などの自然エネルギーは、あっても
 「無」に等しいものなのです。
 つまり、欧米人は、「風力」などの自然エネルギーのことを、『自
 然界に必要なもの』とは考えていない(『あっても無くてもいいも
 の』と考えている)ので、それを「無」とみなしてしまうのです。
 そして、「無」である以上、それをどんなに消費しても自然破壊に
 はならない…ということになるわけです。
 これが、欧米人の考え方なのです。
 だから、欧米人は自然エネルギー利用の有害性が全く理解できない
 のです。

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<悪しき循環に陥りやすい欧米文化思想>

 「無」の考え方が欧米人とは異なる日本人からすれば、こうした欧
 米人の考え方にはゾッとさせられるものです。
 まぁ、「無」に対する考え方の違いというもの自体は、文化の違い
 (民族性の違い)ということで、まだ理解できます。
 ですが、そういう文化思想から来る感覚を、客観性が要求される科
 学という分野に持ち込むというのは、決して見過ごることではない
 はずです。

 そもそも、欧米人が「風力」などの自然エネルギーを「無」とみな
 すのは、「風力」などの自然エネルギーが自然界に必要なエネルギ
 ーであることを認めていないからです。
 もし「風力」などの自然エネルギーが自然界に必要なエネルギー
 なのであるならば、それを「無」とみなすのは、欧米人の文化思想
 (「無」の考え方)に照らし合わせても、全くの誤りでしょう。

 こうしてみると、欧米人の文化思想には、悪しき循環論に陥りやす
 い面があることがわかると思います。
 一度「価値が無い」とみなされてしまうと、「無」とみなされてし
 まい、「無」とされるものだから「価値が無い」とされてしまう。
 これは、悪しき循環でしょう。

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<科学と文化の違いが全くわかっていない>

 「風力」などの自然エネルギーは、本当は「無」とみなしていいも
 のなどではありません。
 それは、自然界で極めて重要な役割を果たしているのです。
 でも、欧米人は「無」とみなす。
 だから、その重要性も全く理解できないのです。

 呆れるのは、そんな欧米人を猿真似している日本のエリートたちで
 す。
 やはり、欧米の猿真似をするしか能が無いのか?

 欧米人の言う「科学」には、欧米人の文化思想がタップリ盛り込ま
 れていることが結構多いのです。
 「風力」などの自然エネルギー利用の有害性を認めないのも、欧米
 人たちが自分たちの文化思想を科学の中に持ち込んでいるからなの
 です。
 そうとも知らず猿真似するとは、救いようのない馬鹿としか言いよ
 うがないのではないか?

 いかなる民族の文化も、尊重はされるべきだと、私は思います。
 たとえ、それが、どんなに不合理なものでも…です。
 それが礼儀というものでしょう。

 ですが、科学は客観性が要求される分野です。
 ですから、自分たちの文化基準で(科学の)白黒を決められては困
 るのです。

 そこへ行くと、欧米の(自称)環境保護主義者たちは、最悪です!
 科学に、露骨に自分たちの文化を持ち込みたがるのですから。
 あんなのは科学ではありません。

 にもかかわらず、日本の政府やマスゴミ(そこに登場する文化人)
 は、そういう「科学のゴミくずみたいなもの」を「科学」として日
 本国民に刷り込み続けているのです。
 これは、日本国民に対する背信という犯罪です。
 「地獄に落ちろ!」と言ってやりたいですね。

 さて、もう一つの理由についてですが、これは次回にお話ししたい
 と思います。
 非常に話が長いので…。
 でも、次回の話の方が、自然科学的な話です。
 出来ることなら来月中にお届けしたいと思っております。

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<欧米流の「無」基準が生み出す幻想>

 自然エネルギーとは全く関係無い話を、『おまけ』として一つ。
 欧米(人)の「無」に対する考え方がわかると、エーテルや真空に
 関する恣意的・御都合主義的な考え方も理解(?)できるようにな
 るというものです。

 御存知のように、アインシュタインは、特殊相対性理論の時はエー
 テルを否定し、一般相対性理論ではエーテルを肯定し(復活させ)
 ました。
 こうした恣意的・御都合主義的な態度も、欧米の「無」の考え方を
 知っていれば、理解(?)できるはずです。
 つまり、特殊相対性理論ではエーテルは不要だったので「無」とみ
 なし、一方、一般相対性理論ではエーテルが欠かせなくなってしま
 ったので「無」とはみなさなくなったのです。
 欧米の「無」が、本当の「無」を意味するのでないのなら、本当は
 ある(?)のに特殊相対性理論で「無い」とすることも可能でしょ
 う。
 もちろん、私は、そんなアインシュタインの考え方は、全く支持し
 ませんけどね。(そもそも、私は『電磁気=近接作用説』の信者で
 はないので…。)
 でも、欧米人や欧米人化した異邦人(∋日本人、ユダヤ人…等々)
 には理解できる(?)のです。

 真空についても、同じです。
 「真空のエネルギー」という話、御存知でしょう。
 何も無いのにエネルギーが存在するなんて、全くおかしな話です。
 でも、真空が欧米流の「無」を意味するのなら、理解できる(?)
 でしょう。
 「何も無いわけではなかった」とすることが出来るわけですから。

 欧米(人)流の「無」は、幻想創出の泉と言えます。
 なぜなら、それは本当の「無」ではないかもしれないからです。
 「まだ何かがあるかもしれない。ただ、人類がまだ発見出来ていな
 いだけかもしれない。」という希望を抱かせてくれる概念なわけで
 す。
 そのことがわかれば、四次元だの、多次元だの、多重宇宙だのを盲
 信できる人たちの心理も理解できる(?)ようになるはずです。

 それから、そうそう、ダーク・マターも…ですね。
 今までの観測では「無」でも、夢やロマンを抱き続けることが出来
 るわけですよ、欧米流の「無」思想に染まっていれば。
 おめでたいことに。

 ちなみに、こうした心理は、文化マルキストたちには、ごく当たり
 前に見られるものです。
 実際、彼らは、地球温暖化説の正しさを証明してくれるシミュレー
 ション用の気候モデルの存在を、今でも信じています。
 未だに「無」なのですがね。

 それから、「自然(再生可能)エネルギーなどの環境ファッショが
 経済成長や雇用創出をもたらす」などと信じていられるのも、やは
 り欧米流の「無」思想の信者だからです。
 そんな例は、一つも無い。(理論的にも不可能なことなのですから
 当然です!)
 でも、「ある」と信じていられる。
 それは、本当は無ではないことを「無」とする文化思想を信じてい
 るからです。
 今は「無」でも、将来はあり得る…と。
 だから、彼らは財源に対しても呑気でいられるのです。
 財源など「無」です。
 でも、いつかは経営が軌道にのって、財源となり得る富が生まれる
 …と彼らは信じているのです。
 それも、これも、欧米流の「無」思想への信仰のおかげなのです。

 確かに、欧米人が「無」としているものの中には、本当は「無」で
 はない(何かが存在する)場合があります。
 でも、本当に「無」である場合もあるのです。
 そういうことが全く理解できないのが、文化マルキストたちなので
 す。
 そんな者たちの言うことを真に受けていたら、大変なことになって
 しまうでしょう。

 騙されても、国際社会では、何の自慢にもなりませんし、同情すら
 されないというのが現実です。
 かえって、カモにされるおそれさえあるほどです。
 もういい加減、目を覚ましませんか?

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発行者:media
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