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             隠れオカルティズム vol.4

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 毎回、お断りしておりますが、このメルマガは、オカルトを賛美したり、科
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 科学が健全なものであることを願うが故に、一部の名ばかりの正統科学に潜
 む非科学的要素や、それを支持する者たちのプロパガンダの手口の実態を、
 追求するものです。
 これらを理解した上で、当メルマガをお読み下さい。

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<『起源は一つ』というドグマ>

 仮に、進化という自然現象が、実際に起こりうるもの、あるいは、実際に起
 こったことがあるとしても、あらゆる生物の起源が一つであるとする必要は
 ないはずです。
 生物には複数の起源があった…としても、いいはずです。
 なぜなら、進化は複数起源説と矛盾することではないのですから。
 確かに単一起源説は進化なしでは成り立ちませんが、だからといって、進化
 という概念は、複数起源説を否定するものではありません。
 それどころか、複数起源説にとっても、有利な証拠になりえます。
 これについては、次回、お話しする予定です。

 ここで、私が問いたいのは、
 『なぜ、単一起源にこだわるのか?』
 ということです。
 極めてよく似た、しかし、わずかに異なる環境・条件のもとで別々に自然発
 生した異なる生物の間に、共通点や類似性、統計学的な相関があっても、不
 思議はない、と思いませんか?
 もっとも、それを認めてしまうと、これまで進化を証明する証拠とされてい
 たことが、必要条件とは言えても、十分条件とは言えなくなってしまうわけ
 ですが…。

 別に私は、
 「単一起源説は間違っている。複数起源説が正しい」
 と言っているわけではありません。
 ただ、他の可能性も考えて良いのではないか、と言いたいのです。

 一つの考えに固執すると、あらゆる事実が、どれも自分の信仰に都合良く見
 えてくるものです。
 よくあるのは、
 「あれも進化。これも進化。」
 と、生物の特徴を、なんでも、かんでも、進化の証拠として捕らえようとす
 る態度です。
 そして、一度、こうなったら最後。
 生物の特徴のどれもが全て、
 「進化があった証拠」
 となり、果ては、
 「これは、進化なしでは、説明がつかない!」
 となって、ますます、それに取り憑かれていくのです。

 こうした心理は、ユダヤ陰謀説を盲信する人たちによく見られます。
 彼らは、災い事を、何でもユダヤの陰謀のせいにします。
 そして、その災い事という事実から、ますます、ユダヤ陰謀説を確信してい
 くのです。
 はたして、彼らを笑える人は、どれだけいるのでしょうか?

 とにかく、あまりに多くの人が、他の可能性を考えず、もっぱら『単一起源
 』にこだわるのが、私には不思議でならないのです。
 奇妙なことに、こうした傾向は、他の分野でも見られます。

 宇宙論の分野でも、宇宙は(一)点から始まったとしています。

 力(重力、電磁気力、強い相互作用、弱い相互作用)も、もとは一つだった
 としています。

 大陸移動説でも、全ての大陸は一つだったとしています。

 人類アフリカ起源説も、単一起源説の一種とみなせるでしょう。

 このように、現代の科学界では、『起源は一つ』というドグマが支配してい
 るのです。

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<科学は結局、神話に辿り着く?>

 では、なぜ、そのようなドグマが、絶大な支持を得るのでしょう?
 人間は、『単一起源』という考えに、本能的に魅せられるのでしょうか?
 私は、そうではないと考えます。
 そうなるのは、後天的な要因、つまり、教育や文化の影響でしょう。
 戦後世代の日本人の場合は前者(教育)の影響が強いでしょうが、それ以外
 の人の場合は、やはり後者(文化)の影響が大であると思われます。
 特に神話の影響は、無視できないでしょう。

 ちなみに、『単一起源』というシナリオは、決して聖書の専売特許ではあり
 ません。
 ほとんどの神話において、人類の祖先は『一人の男』または『一組の夫婦』
 とされています。
 ただ、『一神教』が、『単一起源』という考え方と最も相性がいいものであ
 ることも、事実です。
 もちろん、『多神教』でも、最高神が存在するものについては、やはり『単
 一起源』と相性が良いと言えます。
 また、ある神話では、対等な地位と力を有する二人の神が存在するものもあ
 りますが、これについても、一方が創造の神で、もう一方が破壊の神という
 ふうに役割が決まっており、それ故、創造に関しては、上の二種類の神話と
 同様である場合がほとんどです。 

 こうしてみていくと、『単一起源』に魅せられる原因の一つに、神話がある
 という主張は無視できないでしょう。

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<他の可能性を拒否する態度>

 それでは、なぜ、多くの神話は、『単一起源』的な立場をとっているのでし
 ょうか?
 残念ながら、確かなことは、私にはわかりません。
 ただ、神話というものが、閉鎖的で、排他的な、古い民族主義と深く関わっ
 てきたことは、事実のようです。

 だとすれば、『単一起源説』に魅せられた人たちが、他の可能性を考えよう
 としないのも、納得がいきます。
 なぜなら、神話的要素を、科学の中に平然と持ち込むような人たちなら、閉
 鎖的で排他的な態度をとっても、不思議はないからです。
 「よそ者(の考え)など、信用できるか!」
 というわけです。

 念のため、もう一度、断っておきますが、私は決して、
 「単一起源説は間違っている。複数起源説が正しい」
 と言っているのではありません。
 あくまで、他の可能性も考えて良いのではないか、と言いたいだけです。

 一つのことに固執すると、もし、それが間違いだった時、引っ込みがつかな
 くなります。
 そして、その人は、全てを失うことになるでしょう。

 また、一つのことに固執する人は、他を迫害する傾向があります。
 しかも、彼らは、それを迫害とは思いません。
 彼らにとって、それは正義であり真理なのです。
 このような態度は、ともすれば、
 『初めは誰からも相手にされなかったが、実は正しかった理論』
 というものを、八つ裂きにしてしまう可能性があります。

 それを考えると、やはり、いろいろな可能性を考えるという態度こそが、一
 番良いと思うのです。
 それは単に視野が広がるということだけではなく、他人の研究を妨害せずに
 すむという利点もあるのです。

 とはいえ、よほどの欠点がないと、他の可能性を考えようとしないのが、人
 間というものです。
 そこであえて、私は、定説の心許ない実態や、胡散臭さを指摘するという『
 憎まれ役』をかって出たのですが…
 残念ながら、そうしたことに全く理解を示さない人が中にはいるようです。

 もちろん、いろいろな可能性を考えると、判断に迷うのも事実です。
 ですから、真偽を判断するには、十分な検証が欠かせず、また、そのために
 は理論が何かを予言してくれないと、話にならないのです。
 残念ながら、この点についても、理解を示さない人がいるようです。

 結局、科学もまた『信じるものは救われる』世界なのでしょうか?
 あるいは、数や力がものをいう世界なのでしょうか?
 そうあってはほしくないものです。

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発行者   : media
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