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性格偏執狂時代 vol.176
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≪民主党政権とマスゴミの責任転嫁トリック…その12≫
またまた間があいてしまい、申し訳ありません。
今回も『法』を巡る話をしたいと思います。
今回は、現代日本人の『法』に対する異常な態度についてです。
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<法にまで性格偏執狂する昭和生まれの狂気>
前回指摘したように、東電に事故の責任あり(国には無し)とする裁判所の
判決は、実質事後法に基づく全く不当なものです。
そのことを未だに問題視していない法曹界の腐れぶりには、ただただ呆れる
ばかりです。
法とは、かくも汚らわしいものだったわけです。
なぜ司法に対する批判が起きないのか?
その理由の一つに、法というものを崇めたがる変質者たちが多いことが挙げ
られます。
「法とは、清いものだ。神聖なものなのだ。だから、批判するなんて、とん
でもないことなのだ。」とする偏執狂です。
そして、「法が批判してはならないものなのだから、司法も批判してはなら
ないのだ。」となるわけです。
まさに司法キチガイです。(注:『キチガイ』を差別語とするのはサヨクの
独善にすぎないのであり、そんな思想を絶対視させようとすることこそ、立
派な差別です!)
要するに、彼らは、法に対してまで性格偏執狂しているわけです。
つまり、勝手な思い込みや作られたイメージの虜になるという、まこと愚か
なことをしているのです。
やっぱり、昭和生まれにはビョーニンが多いようです。
法は、人がつくった(制定した)ものでしかありません。
そんなものを崇めるなど、愚の骨頂です。
法が神聖なものだというのなら、ソクラテスを死に追いやった『悪法』だっ
て、神聖なものということになってしまうではありませんか。
いい加減、バカ…いや、キチガイはやめるべきです。
そのくせ、治安維持法やスパイ防止法などは敵視するのですから、これはキ
チガイというよりは、ただの恥知らずですね。
「恥の文化」の国が、いつの間にか「恥知らずの文化」の国になっていたわ
けです。
少しは羞恥心というものをもってはいかがでしょうか?
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<法を崇めることの愚かしさ>
それとも、「そんなことは、お前に言われなくてもわかっている。でも、ど
うしようもできないから、みんな、耐えているのだ!」ということなのでし
ょうか?
でも、相手は、たかが『人がつくったもの』ですよ。
そして、それを仕切っている連中も、所詮は『ただの人間』にすぎません。
ただ、ちょっとだけ、文系科目の成績が良いというだけの連中です。
法や法学系人間に後(しり)込みするのは、「法学系人間は、高学歴、高偏
差値」というイメージがあるからでしょう。
ですが、理系の人間からすれば、あんなの、ただの『法学専門バカ』でしか
ありませんよ。
ですから、法学の世界も、ただのオタクの世界でしかないのです。
そんなものに後込みするなんて、全くバッカらしいことではありませんか。
法は、全く人間的な世界です。
だから、汚れていることもある。
ならば、そんなものを崇めるのは、バカらしいなんて穏やかなものではなく、
むしろ罪深いことでさえあるのです。
法を崇める狂人が増えた一番の理由は、やはり、戦後教育にあります。
戦後教育が法を崇めさせるような教育をしてきたのです。
法治主義を「独裁と対峙するもの」という大嘘を刷り込むのも、戦後教育の
特徴の一つですからね。
現実の独裁政治は、みな、法治主義です。
共産圏国家なんか、まさにそうです。
ヒトラーも、スターリンも、みな、合法的に独裁者の地位に上り詰めたので
すよ。
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<法は科学にとって一番の脅威>
そして、忘れてはならないのは、地動説を主張したガリレイも、当時の法に
より裁かれたことです。
科学にとって、法は、一番の脅威なのです!
そのことを、もう、いい加減、悟っていただきたいのです。
東電に責任あり(国には無し)という裁きを下した裁判官どもは、プレート
境界問題や連動問題という、当時の地震学者たちが全く考えもしなかった問
題の存在を完全無視しています。
裁判官というものは、かくも自然科学嫌いな連中なのです。
ま、無理もないでしょう。
先ほども述べたように、彼らは、ただの『法学専門バカ』でしかないのです
から。
そもそも、『法学専門バカ』にすぎない連中に、自然科学の問題を裁かせる
ことがおかしいのですよ。
この問題に取り組もうとしない政治の怠慢は、まことに許し難いものであり
ますが、その政治を仕切っている政治家というやつが、実は、法学系人間が
多いのです。
なるほど、これでは、いつまで経っても、非科学・反科学が猛威をふるい続
けることになるのは当然のことでしょう。
そして、疫病に対して、まともな対応ができないのも。
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<専門分野に関しても怪しい法学系人間たち>
まぁ、裁判官どもがプレート境界問題や連動(が起きるという)問題がわか
らないのは、専門外のことなわけですから、まだ同情の余地はあります。
ですが、実質事後法で裁くことになるという問題を無視していることについ
ては、全く同情の余地はありません。
これは、彼らのモットーであるはずの罪刑法定主義に反する行為なのですか
らね。
つまり、彼らは、ご自分たちの専門分野のことでも、お粗末なことをやって
くれているのです。
自分の専門分野のことでもダメとなると、もはや『専門バカ』ですらない、
ただの能無しでしかないでしょう。
そんな奴らを税金で雇い続けるのは、それこそ、税金の無駄遣いというもの
です!
なるほど、法の文は、事後に変えられてはいません。
ですが、「異常に巨大な天災」の基準が、事後に、常識から非常識に変えら
れてしまっているのです。
ですから、それに基づいて裁くのは、実質事後法で裁くことになる(∴罪刑
法定主義を無視することになる)のです!
そんなこともわからないとは、頭悪すぎではありませんか?
そんな連中のことをインテリ・エリートとして崇めるのも、愚の骨頂です。
このように、彼らは、自分の専門分野に関しても怪しいな連中なのです。
そんな連中に後込みするのは、全く愚かなことでしかないのです。
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<三権分立はペテンだ>
裁判官のことをいいだけボロクソに言ってしまいましたが、もしかしたら、
裁判官の中にも、自分たちの破廉恥を恥じている人たちがいるかもしれませ
ん。
でも、言いたくても言えない事情がある。
それは、三権分立がペテンだからです。
司法は、建前上は、行政(内閣)や立法(国会)から完全に独立した存在と
いうことになっています。
でも、実際は、そうではないようです。
人事権などが握られているようですからね。
それに、司法には、(今回のような)悪法を裁く権限が無い。
これが大問題なのです。
このせいで、司法は、悪法でも法にのみ基づかなくてはならなくなる。
ですから、ある意味、非常に気の毒な立場にあると言えるわけです。
加えて、裁判官も人間ですから、マスゴミという第4の権力からの圧力とい
う現実問題がある!
しかも、今時の政治家どもはマスゴミを利用したがるので、なおさらです。
もしかしかしたら、当時の政権は、そうしたところにつけ込んだのではない
か?
そういえば、当時の政権は、イエスマンの弁護士を東電の社長に据えさせま
したよね。
依頼人に尽くすのが弁護士というものです。
三権分立なんて、現実には幻想にすぎないのです。
こういうところでも、戦後教育は大嘘吐きなものなのです。
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<西洋と東洋の法に対する考え方の違い>
ここで、再び、法に関する話です。
何度も言うように、法を崇めるのは愚かなことです。
ところが、欧米の映画などをみると、法を崇めているように思わさせられて
しまう作品が結構存在します。
では、本当に欧米人は法を崇めているのでしょうか?
まぁ、中には、そういう変人もいるでしょうね。
でも、多くの欧米人は、法を崇めてなんかいないのです。
では、なぜ、あのような作品が存在するのでしょうか?
これに関して知っておかなければならないのは、法に対する西洋と東洋での
考え方の違いです。
日本を含む東洋では、法は、もっぱら、トップ・ダウン的なものです。
つまり、上から押し付けられるものなわけです。
これに対し、西洋(正確には、欧米)では、トップ・ダウン的なものがある
一方で、そうでないものもあるのです。
まぁ、ボトム・アップ的なものとまでは言えませんが、ミドル・アップ的な
ものがあるのです。
つまり、貴族や実力者が、王に対し、ある約束を守らせようとする、そんな
法も存在するのです。
だから、欧米人は法を重要視するのです。
そういうことを知っていないと、とんでもない勘違いをすることになります。
残念ながら、現代日本には、そういうことを知らない人が多いようです。
だから、法を天声や戒律のごとく有り難がる変質者が多いのです。
それも、高学歴な人たちに…。
やはり、無知というものは怖いものです。
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<「ここでは俺様が法律だ」という台詞が意味するもの>
まともな欧米人は、法を崇めたりしません。
それが証拠に、アメリカ開拓史時代のことを描いた映画作品には、憎まれ役
が、こんな台詞を吐くシーンがよく出てきます。
「ここでは、俺様が法律だ!」と。
法を神聖なものと崇める人たちが、こんなシーンを入れたりするはずがあり
ません。
法の現実、実態を知っている人たちだからこそ、そういうシーンを入れられ
るのです。
法は、良しも悪しくも現実を反映しているものです。
現実の姿をうつす鏡と言ってもいい。
独裁国家の法を見てご覧なさい。
法が力(ちから)の代名詞になっていることが、よくわかります。
そんなものを「清い」だの「神聖」だのと評する人がいると思いますか?
いるとすれば、それは真っ赤な戦後ニッポン人だけです。
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<約束事だから守らなければならないというだけのこと>
さて、法というものをボロクソ言ってきてしまいましたが、ならば、なぜ、
法というものは守らなければならないのでしょうか?
それは、互いに交わした約束事だからです。
約束を破れば、相手も怒るでしょう。
また、約束を破られれば、こっちが大損害を被る。
それに、約束事が無ければ、やはり、秩序は保てません。
そもそも、具体的に何を守ればいいのか、わからなくなってしまう。
だから、法があるというだけのことなのです。
余談ですが、法は、具体性を増せば増すほど、ザルになったり、融通性や柔
軟性が無くなる(∴変化や多様性に対応できなくなる)ものです。
かといって、逆に具体性を欠くようになると、恣意的な御都合主義が蔓延る
ことになります。
原子力賠償法(の事後の実質改正)は、まさに、そのいい例です。
法は、決して、神のような万能の存在なんかではないのです。
法を崇めては、いけません。
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<法は権力者によって仕切られるもの>
法そのものは、決して民主主義的なものではありません。
平等なものなんかではない。
全く選民主義的なものです。
権限を握っている者だけが、つくったり、変えたり、廃したりすることがで
きるものなのです。
また、権限を握っている者に都合のいいように解釈され、適用される。
これが、法の現実です。
そんなものを「清い」だの「神聖」だのと言うのは、よほどの変人だけでし
ょう。
ですから、菅直人=民主党政権が原子力賠償法を事後にこっそり実質改正し、
それに基づかせて司法に裁かせるという破廉恥なことができてしまうのも、
別に驚くべきことではないのです。
法とは、その程度のものなのですから。
法を神様のように思うから、法に裏切られることになるのです。
法は、民主主義においては、民意の表れとされます。
ですから、実質事後法がまかり通るのは、有権者の責任なのです。
有権者が非難しないから、政治家どもの好き勝手にされてしまうのです。
法学系人間には、とにかくタチの悪い連中がいるものです。
政治家なんかは、まさしく、そのいい例です。
彼らは、法を悪用し、真実を歪め、真の科学を封じ込めようとするものです。
法とは、それぐらい危険なものなのです。
無形の大量破壊兵器となり得るものなのです。
魔女狩りや魔女裁判も法に基づいていたという事実を忘れてはなりません。
法には、自浄能力が無いのです。
もちろん、恥の意識も無い。(人間ではないのですから。)
こうした当たり前のことを、現代ニッポン人はすっかり忘れてしまっている。
こんなことを続けていると、そのうち、世界の笑い物になってしまいますよ。
(次回に続く)
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発行者:media
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