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 N┃→       仮想力線電磁気学
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●反エコ(環境)ファッショ特集 号外

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前回同様、、他のメルマガ(サマータイム制導入に反対する)の流
用記事での代用です。
体調が戻るまで、どうか御了承願います。


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-.改めて福島第一原発事故の本当の原因
  を考える <7>
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 今回も、前回の続きとして、これ(↑)をテーマにしたいと思い
 ます。
 まずは、前回も示した重要点を復習してきたいと思います。

 まず第一に、事故が起きた本当の原因として、以下の三つを示し
 ました。

 (1)自然災害の想定が低すぎた。

 (2)想定越えという事態を考えていなかった。故に、想定越
    えという事態に対する備えが全く不十分であった。

 (3)事故が起きた時のことを考えていなかった。故に、事故
    への対処がなっていなかった。

 そして、(1)の原因となった「日本の地(震)学」の未熟さを
 示す証拠として、以下の三つのことを指摘しました。

 (A)「日本の地(震)学」者たちは、実は、地下のひずみの
    たまりを把握していない。

 (B)「日本の地(震)学」者たちは、実は、連動のメカニズ
    ムを解明できていない。

 (C)「日本の地(震)学」者たちは、実は、アウターライズ
    地震のメカニズムも解明できていない。

 以上のことを思い出していただいた上で、前回の話の続きを述べ
 ていきたいと思います。


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-.なぜ人は解釈を「検証」と勘違いする
  のか?
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 前回指摘したように、解釈は検証を殺すものなのです。
 で、問題なのは、解釈にすぎないことを「検証だ」と勘違いして
 しまう人が、世の中、あまりに多いことです。
 その結果、『ただの解釈』にすぎないことが、「科学的事実」と
 され、定説となって、科学を支配し続けることになるのです。
 だから、解釈崇拝(信仰)は有害だと言いたいのです。

 解釈を「検証」と勘違いするなどというのは、とんでもないこと
 です。
 解釈なんてものは、これまた前回指摘したように、対象となる物
 事につけられた理屈にすぎないのですから。
 ただの理屈を「検証」と勘違いするなど、とんでもないことのは
 ずでしょう。

 では、なぜ、解釈を「検証」と勘違いをしてしまう人が多いので
 しょうか?
 今回は、その原因を暴いてみたいと思います。


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-.解釈は『何とでもつけよう』なもの
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 その前に、解釈の空虚さについて、改めて認識しておく必要があ
 ると思うので、その話をまずしたいと思います。

 もう何度も言っているように、解釈なんてものは、理屈にすぎな
 いのです。
 一方、理屈は、『何とでもつけよう』なものです。
 従って、解釈もまた、『何とでもつけよう』なものにすぎないの
 です。

 そんなものをもって「検証」などとされてしまったのでは、たま
 ったものではありません。


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-.解釈にルールは無い
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 解釈には、ルールというものがありません。
 ですから、当然、合格基準(満たさなければならない条件)なん
 てものも、ありません。
 また、反則も無い。
 ですから、「何でも、あり」の世界なのです。

 ま、だからこそ、疑似科学(特にサヨク科学)の世界では、解釈
 が尊ばれるのですがね。
 でも、真の科学にとっては危険物的存在のはずでしょう。

 確かに、推理の手段としては、有効ですがね。
 ですが、検証の手段としては、禁物なのです。


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-.自分に都合の悪い解釈をしたがる人は
  いないもの
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 その理由は、少なくとも三つあります。

 一つは、自分に都合の悪い解釈をしたがる人は、まずいないもの
 である…ということです。
 人は、自分に都合の良いように解釈したがるものです。
 自分に都合の良い解釈を「真」とし、都合の悪い解釈は「偽」と
 したがる…。
 それが人間ってもんです。
 でも、これでは、全く客観性を欠いてしまうでしょう。

 ちなみに、地質の調査を行った学者は、自分が行った調査の学術
 的価値(さらには社会的価値)が「高い」と評価されることを望
 むはずです。
 ですから、一部を調査したにすぎない場合でも、「全体のことが
 わかる調査」と受け取られるような解釈をされた方が、都合が良
 いわけです。

 まして、研究予算配分で実権を握っている政治家どもが「地球温
 暖化防止のために原発推進すべきだ」と熱狂している時なら、そ
 ういう解釈は大いに歓迎されることでしょう。
 政治家どもだけでなく、学者たちにも…。

 私が何が言いたいか?、もうおわかりですね。


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-.解釈は「誰が言ったか?」で真偽優劣
  が決まるもの
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 解釈でさらに問題になってくるのは、「誰が言ったか?」で真偽
 優劣が決められてしまうことです。
 ですから、力(ちから。影響力)がモノを言うようになってしま
 うのです。
 当然、「言った」人の人気や知名度も影響してきますよね。
 また、肩書きも、大きくモノを言うことになります。

 つまり、人気投票や権威主義の世界になりがちなのです。
 ま、B層市民は、そういうもので満足なのでしょうけれどね。
 でも、普通の人にとっては、そんなものでは、たまったものでは
 ないはずです。


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-.解釈は能力や好き嫌いや思想に左右さ
  れてしまうもの
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 解釈のさらなる問題は、解釈する人の能力に大きく左右されてし
 まうことです。
 無能な者は、限られた解釈しか出来ません。
 つまり、他の可能性を思いつかないのです。
 これでは、真実・真相・真理に近づくことは困難でしょう。

 また、無能な者は、他の解釈を思いついた人のことを妬むもので
 す。
 そのため、他の解釈を思いついた人を潰してやろうとすることが
 よくあるものなのです。
 これは、左右問わず、インテリさんによく見られる傾向です。

 解釈は、また、する人だけでなく、聞き手の好き嫌いや思想に大
 きく左右されるものです。
 たとえば、赤い人たちは、赤い解釈しかしたがらないものですし、
 また、赤い解釈しか受け入れたがらないものです。
 彼らは(ともに)赤い解釈が好きなのであり、それと対峙する解
 釈は大嫌いなのです。


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-.解釈は実質反証不可能(∴検証不可能)
  なものである
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 好き嫌いや思想で真偽優劣が決められてしまえるのは、既に述べ
 たように、解釈にはルールが無いからです。
 「何でも、あり」の世界。
 だから、自分の思想や好みにマッチする解釈を絶対視し、そうで
 ないものは否定または無視するなどという、全く客観性を欠く破
 廉恥な態度がとれてしまうのです。

 こうしてみると、解釈は、実質、反証不可能なものであることが
 わかるでしょう。
 学問的には可能でも、現実世界では不可能なわけですから。
 自分の思想や好みに合う解釈は捨てられず、自分の思想や好みに
 合わない解釈は迫害するというのが、現実世界の人間ってもんで
 す。

 言うまでもなく、反証不可能なものは、実質、検証も不可能です。
 つまり、それは、エセ科学や疑似科学、あるいは、良くてもせい
 ぜい眉唾科学ぐらいでしかないわけです。


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-.解釈とファッショ
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 こうなってくると、解釈崇拝(信仰)は、ファッショの最大の原
 動力たり得るものであることがわかるでしょう。
 事実、環境ファッショは、解釈だらけの世界ですからね。

 以上の話から、解釈が、科学にとって、毒にも薬にもなり得るも
 のであることが少しはおわかりいただけたと思います。
 科学において、解釈を「検証」と勘違いするなど、とんでもない
 ことなのです。

 困ったことに、NHKをはじめとするマスゴミは、解釈を「検証」
 と勘違いさせる洗脳活動ばかりやっています。
 あれは、まことに非教育的です。

 なるほど、だから「教育テレビ」と言わずに「Eテレ」と言うよ
 うになったのか。(笑)


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-.実験・観測・調査には解釈が付き物ゆえ…
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 さて、それでは、なぜ、解釈を「検証」と勘違いしてしまう人が、
 かくも多いのでしょうか?

 それは、検証の手段である実験や観測や調査には、解釈が付き物
 だからです。

 実験・観測・調査によって得られた結果(データなど)は、通常、
 それだけでは何を意味しているのかよくわからないものである場
 合が少なくないのです。
 だから、どうしても、それ(結果)に対する解釈が必要になって
 くるのです。

 そう、こうして解釈が入り込んでくるわけですよ!
 そのために、折角行った実験・観測・調査が、全く客観性を欠く
 ものに利用されてしまうおそれがあるわけです。

 先ほど述べたように、人間というものは、自分に都合の良い解釈
 をしたがるものであり、また、受け入れたがるものです。
 都合の悪い解釈は拒みたがるものです。
 また、自分の思想や好みに合う解釈をしたがるものであり、そう
 でない解釈を敵視したがるものです。
 また、自分の能力を越えた解釈は出来ないし、そうした解釈が出
 来た人のことを妬むもの。
 また、「誰が言ったか?」で決まってしまうもの。

 事実、地球温暖化論者たちは、低温という観測結果まで「地球温
 暖化説の正しさを、あますところなく確証する証拠」としてしま
 います。
 観測が無意味なものになっていますでしょう。
 つまり、検証ではないものにされてしまっているわけです。
 解釈とは、かくも有害なものなのです。

 一部の地質(それも実験室の環境での話)しか調べていない調査
 結果も、「全体の、しかも普遍的な地質」と解釈されたために、
 プレート境界は「すべりやすい」とされ、想定越えの可能性を考
 えられなくしてしまった。
 それで、原発事故が起きてしまったのです。

 実験・観測・調査が行われたからといって、「十分な検証が行わ
 れた」と思いこむのは、浅はかなことなのです。
 なぜなら、実験・観測・調査には解釈が付き物だからです。
 これは、何度繰り返し説教しても、し過ぎるということはないこ
 とです。


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-.文系人間は概して解釈が好きなもの
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 何度も言うように、実験・観測・調査には解釈が付き物なのです。
 ですから、その結果が何を意味するのかは、解釈の数だけ言えて
 しまうことなのです。
 複数の解釈が可能な場合は、それが意味するところのものは複数
 存在することになる。

 呆れるのは、「事実は一つでも、真実は一つとは限らない」な〜
 んて偉そうなことを言っている奴に限って、特定の解釈しか認め
 たがらない傾向が強いということです。
 事実、マスゴミは、低温の観測データを「地球温暖化説の正しさ
 を、あますところなく確証する証拠」としているではありません
 か!

 どうも、文系人間というのは、解釈が好きな人が多いみたいです
 ね。
 だから、解釈を「検証」と勘違いしてしまう傾向が強い。

 一般に、文系人間というのは、理工系人間と比べて、文学好きで
 ある場合が多いものです。(もちろん、絶対的なものではありま
 せん。念のため。)
 で、文学の世界では、解釈が重要視されるものです。
 文学は芸術の一分野でもあるわけですから、これは当然のことで
 す。
 芸術の世界では、解釈が重要視されますのでね。
 だから、文学の世界でも、解釈が重要視される。
 故に、文系人間には解釈大好き人間が、どうしても多くなってし
 まうものなのです。

 ですが、真の理工系人間の世界では、失礼ながら、解釈なんても
 んは、主観や独り善がりにすぎません。
 客観的なものとは、全然言えない。
 従って、解釈が占める割合が多い実験・観測・調査については、
 決して十分な検証とはみなされないものなのです。
 それ故、「他の解釈は不可能」とされるまで、実験・観測・調査
 が続けられるものなのです。

 でも、地学系(宇宙科学を含む)とかは、例外みたいですね。
 だから、マスゴミ人間や政治家どもにはウケがいいのでしょう。


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-.解釈を知識や教養扱いする狂人たち
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 文学に限らず、芸術の世界では、(ある特定の)解釈を『知識』
 とか『教養』とみなしたがる傾向があります。
 それを知らない者は無知・無学・無教養とされ、また、そういう
 解釈が出来ない者は無能と烙印を押されてしまう。
 そういう世界です。

 だから、ある種の文系人間たちは、他の可能性(解釈)というも
 のを嫌うのでしょう。
 そして、自分たちが信じている解釈だけを「唯一無二の真理」と
 思い込みたがるのでしょう。

 ですが、芸術の世界ですら、たとえば、ある作品に関する解釈が
 時代とともに変わってしまうことがあるものです。
 そのことを知っていれば、特定の解釈に固執するなどという態度
 が全く偏執狂的な態度であることが理解できるはずです。
 たとえ文系人間であっても。

 文系人間だって、拡大解釈とか再解釈といったものを知っている
 はずです。
 ならば、解釈を絶対視するなど、とんでもないことであるが理解
 できるはずです。

 要するに、エセ教養人(しかも、モラルが低い)の文系人間が、
 (特定の)解釈を絶対視するなんて狂ったことをやっているので
 す。
 つまり、文系人間としても三流以下の連中ってことです。
 マスゴミや政界(国連を含む)は、まさしく、そうした文系人間
 の巣窟なわけです。


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-.期待と解釈
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 言い忘れましたが、解釈というものは『期待』というものに大き
 く左右されるものです。
 『期待』にそうような解釈こそが絶対的に正しく、『期待』に反
 する解釈は「トンデモ」ってわけです。
 従って、実験・観測・調査の結果も、『期待』にそうように『解
 釈』されなければならないことになるわけです。

 でも、そんなものは科学とは言わないでしょう。
 たとえ文系人間の世界であっても。


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-.懐疑精神と検証
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 そもそも、なぜ人は検証を行うのか?
 それは、「それが真実であるかどうか、確信がもてない」という
 懐疑精神があるからでしょう。

 ならば、他の解釈が考えられる場合、(他でない)一つの解釈に
 満足していては駄目なはずです。
 他の解釈が不可能となるような更なる実験・観測・調査が必要な
 はずです。
 それを十二分に行って、初めて「検証を行った」と言えるのです。

 そもそも、なぜ懐疑なんて心理が生まれるのか?
 それは「他の可能性(解釈)もあり得る」と思っているからです。

 逆に言うと、他の可能性(解釈)というものを考えない人は、懐
 疑という心理状態になることは、あり得ません。
 事実、地球温暖化論者たちは、地球温暖化説に都合の良い解釈に
 懐疑精神を抱くことはありません。


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-.「他の可能性を考えたくない」障がい
  者の心の拠り所
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 こうしてみると、解釈崇拝(信仰)は、「他の可能性を考えたく
 ない」障がい者の心の拠り所であることがわかるでしょう。
 『他の可能性を考えない』などというのは、無能(他の可能性を
 思いつけない)か、そうでなければ怠慢である証拠です。
 ですから、他の可能性(解釈)を考えない学者は、(学者として)
 無能か怠慢のどちらかなのです。
 そんな連中のことを「無能・怠慢」と批判することに、なぜ癇癪
 を起こす者がいるのか、私には全く理解できません。

 何度でも言わせていただきますが、実験とか観測とか調査という
 ものは、他の解釈が不可能となるまでやらなければ、(十分な)
 検証とは言えないのです。
 こういうことを学校で教えないのは、やはり国の怠慢です。

 え?、マスゴミも教えてくれない?
 ああいう連中に『期待』することが、そもそも間違いではありま
 せんか?


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-.検証怠慢に気付かなくさせるもの
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 都合の良い解釈は、人に満足感を与えてしまうものです。
 そのために、全く不十分な検証でも、「十分な検証」と錯覚させ
 てしまうものです。

 そう、解釈とは、検証怠慢に気付かなくさせるものなのです。
 そのために、解釈を重視する社会では、検証怠慢が蔓延し、慢性
 化してしまうものなのです。

 ちなみに、解釈原理主義(?笑)を日本国民に刷り込んできたの
 が、NHKや朝日などといったマスゴミです。
 そして、その背後には、政治家という黒幕がいる。
 この黒幕については、また別の機会にお話したいと思います。


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-.検証怠慢が生んだお騒がせアイドル…
  STAPオボコ
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 東電(福島第一原発)の想定外は、解釈依存好きの学者たちの検
 証怠慢が大本の原因となって起きたことです。
 解釈原理主義(笑)による検証怠慢は、今や、「まさか」と思う
 ような分野にまで蔓延しています。

 その症例の一つが、STAPオボコ騒動です。
 あれも検証怠慢が招いた恥晒しでしょう。
 インチキなのか、杜撰さの産物なのか、よくわかりませんが、い
 ずれにせよ、オボコの研究がお粗末なものであったことは否定で
 きない事実のはずです。
 そして、そんなものに熱狂・陶酔したのは、オボコの研究に対し
 て検証怠慢だったからです。(ニセ・ベートーヴェンと同じ。)
 理研は検証怠慢の巣窟だったのですね。


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-.コネと検証怠慢
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 ただし、笹井氏を検証怠慢と批判するのは、適切ではありません。
 自殺してしまったから(同情して)、こういうことを言うのでは
 ありません。
 笹井氏は論文執筆指導を任されていたのであって、研究そのもの
 の指導を任されていたわけではないのですから、検証怠慢という
 批判は当たらないのです。

 検証怠慢という批判を受けなければならないのは、オボコ自身と、
 オボコを売り込もうとした連中(すなわち、オボコ人気の仕掛け
 人たち)です。
 マスゴミは「笹井氏がオボコを利用しようとした」とし、中には
 「失楽園」とまで報じているものがあるほどですが、私はそれは
 違うと思います。
 むしろ、笹井氏の側が、オボコやオボコ人気の仕掛け人たちに利
 用されたというのが真相だろうと思っています。

 オボコには、不可解なところが沢山あります。
 驚くべき出世ぶり、そして、金回りの良さです。
 オボコは、そんなに優秀な研究者なのか?
 そんな優秀な研究者が、なぜ、あんなお粗末な研究をしでかした
 のか?
 200回以上作製に成功したと言うものの、他の人は誰も成功せず、
 しかも、なぜ他の人は成功しないのか?、どこが悪いのか?、説
 明できないという超〜不思議。
 本当に優秀な研究者が、こんな不思議な態度をとりますかね?
 金回りの良さも、不思議。
 親は、それほど金持ちではないとか。
 では、金はどこから?
 それに、金があっても、出世は無理でしょう。

 となると、考えられるのは、ただ一つ。
 何か強力なコネを持っているということではないか?
 それも政治家との…。
 理研が独立行政法人であることを考えると、その可能性は十分に
 考えられます。
 特に疑われるのが、森=町村派との関係。
 町村は、オボコを庇ったというではありませんか。
 また、安倍(総理。森=町村派。)はオボコと会見する予定でし
 た。
 科学雑誌に取り上げられたというだけで、普通、総理が会ったり
 しますかね?
 ま、安倍は再生医療分野を「成長分野」と位置づけているので、
 「だから、特別扱いした」とも言えますが、一方で、「だから、
 オボコ売り込みに手を貸した」と疑うことも可能なのです。
 そういえば、オボコは森と同じ、早稲田大学出身では?
 これらは「単なる偶然」と言い切れることなのでしょうか?

 コネもまた、検証怠慢の動機となり得るということを忘れてもら
 っては困ります。


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-.悪いのは成果主義ではなく賞金主義
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 ところで、STAPオボコ騒動について、「成果主義が悪い(こ
 のような結果を生んだ元凶だ)」という指摘があるようですね。
 でも、これは的が外れていると思います。
 なぜなら、オボコは何の成果もあげてはいないからです。
 STAP細胞を信じている人たちにとっては、むしろ逆成果をあ
 げてしまったことになるのではありませんか?

 悪いのは、成果主義ではなく、賞金主義です。
 つまり、これが出来たら「金を出してやる」とか「出世させてや
 る」という主義です。
 事実、安倍政権は、この分野を「成長分野」と位置づけ、賞金主
 義やってるではありませんか。
 そんなことするから、変なのやら、怪しげなのやらまでが、わん
 さと寄ってくるのですよ。

 賞金主義の弊害を考えないとは、やっぱり、お子さまですね。


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-.ノーベル賞原理主義という狂気
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 その賞金主義の頂点に位置するのが、ノーベル賞原理主義(?笑)
 でしょう。
 小泉政権以降、日本国政府は、ノーベル賞受賞者増産に力を入れ
 てきました。
 ノーベル賞もまた、学者・研究者にとっては賞金と言えるもので
 す。
 実際、賞金も出るのですが、売名効果の他、満足感という点でも
 学者・研究者にとっては大変な賞金と言えるはずです。
 というわけで、日本国政府はノーベル賞受賞者増産に力を入れて
 きたわけです。

 ですが、ノーベル賞が広義の賞金の一種である以上、賞金主義の
 弊害が出ることは覚悟しなければなりません。
 つまり、まがい物の発生です。
 ですから、ノーベル賞原理主義をやるなら、より慎重な検証を行
 う必要があるのです。
 ところが、日本国政府は、ノーベル賞受賞者を増やすことしか頭
 にないので、検証怠慢するわけです。
 これでは、日本の恥を晒すだけのまがい物がのさばってくるのは
 当然のことでしょう。

 ノーベル賞原理主義もまた、点取り虫がとりたがる政策です。


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-.金の出所を考えよ…欧米猿真似主義の
  元凶
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 そもそも、ノーベル賞って、そんなにクリーンでピュアな賞なの
 でしょうか?
 資金源の出所がどこかを考えれば、それが幻想にすぎないことに
 すぐ気付くはずです。
 賞金に豪華なレセプション。
 いくらノーベルがダイナマイト(でしたっけ?)で儲けたからと
 いって、あれだけの事業を維持し続けるのは無理ではないか?

 ということは、誰か(どこか)が大金を出してくれているという
 ことでしょう。
 でも、そうなれば、金を沢山出している者の御機嫌をとらざるを
 得なくなるのが現実というもの。

 では、金を沢山出してくれているのは、何者?
 それは、世界金融の枢軸である英国と米国でしょう。
 事実、ノーベル賞受賞者には英国や米国の学者が多いですよね。

 逆に言うと、英国や米国以外の国の学者が受賞するのは難しいわ
 けです。
 ですから、英国や米国以外の国の学者が受賞するためには、英国
 や米国の学者が主導してきた分野や学説で手柄をあげるしかなく
 なるのです。

 実際、日本の学者には、そういうのが多いでしょう。
 特に国やマスゴミ(NHK)にヨイショされる者たちは、みなそ
 うといってもいいほどです。
 このように、ノーベル賞原理主義をとると、英国や米国の学者が
 主導してきた分野や学説の研究ばかりが依怙贔屓されることにな
 ってしまうのです。(その分、他は淘汰される!)
 たとえ、それが、どんなにいかがわしいものであっても。(地球
 温暖化説関連の研究は、その好例。)

 STAP細胞も、米国の学者のアイデアであることを忘れてはな
 りません。
 もし、あれが、日本人学者のアイデアだったら、国はあそこまで
 ヨイショしたでしょうか?
 まったく、怪しいもんです。


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-.「社会のため」という騙し
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 ノーベル賞原理主義のような依怙贔屓政策を正当化させるのに最
 高の殺し文句となるのが、「社会のため」ですね。
 STAP細胞も、もし本物なら「社会のため」になるもののはず
 だったのですから。

 ですが、このような『耳に心地よい』文句に騙されては、いけま
 せん。
 なぜなら、何が「社会のため」になることと言えることのか?と
 いう問題があるからです。

 たとえば、地球温暖化論者たちは、風力発電や海洋発電のような
 自然破壊エネルギー(笑)を推進することが「社会のため」にな
 ることだと言い張っていますよね。
 自然に直接的に大きな負荷をかけ、資源を無駄遣いし、電源の質
 を低下させ、電気料金を値上がりさせるエネルギーの普及・推進
 を、「社会のため」とほざくとは、呆れた連中ですが、困ったこ
 とに、現実世界では、そういう連中の主張がまかり通ってしまっ
 ています。
 こういう例一つ見ても、「社会のため」という文句は、全く客観
 性を欠くものであるということに気付くはずです。

 それに、多くの学問分野は、直接的には「社会のため」には役立
 たないものです。
 また、「社会のため」に役立つ科学技術は、「社会のため」に直
 接的には役立たない科学技術の上に成り立っている場合が少なく
 ないものなのです。
 また、今は「社会のため」に役に立たない科学技術でも、ずっと
 後の時代になって役に立つようになる科学技術というものもあり
 ます。
 そういうことを全く知らないバカ政治家の宣伝文句なわけですよ、
 「社会のため」なんてのは。

 政治家が、偽善的な宣伝文句を用いて、如何に我が国の科学を駄
 目にしているか、これで少しはおわかりいただけたと思います。


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-.「成長分野」という騙し
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 政治家が日本の科学を駄目にしているもう一つの宣伝文句が、既
 に出てきた「成長分野」です。
 「成長戦略」として科学技術を用いようって魂胆ですね。

 ですが、何が「成長分野」になるか?なんて、わかるわけがない
 のです。
 その時は「成長分野」になると思っていたものでも、何十年か後
 になると、廃れてた…なんてことは全然珍しくないものです。
 逆に、全然見向きもされなかった分野が「成長分野」だったこと
 が、後になってからわかる…なんてことも全然珍しくないもので
 す。
 ですから、軽々しく「成長分野」なんて言うものではないのです。

 要するに、これ、成長幻想のための宣伝文句ですね。
 つまり、共産主義と同じってことです。
 戦略とは、(戦争の)長期的「計画」という意味なのですからね。
 なんてことはない、計画経済の言い換えってだけの話です。
 アホらしい。

 そもそも、再生医療って、「成長分野」たり得るものなのか?
 成長分野ということは、需要が増えるということですよね。
 でも、再生医療の需要が増えるということは、病人やけが人が増
 えるということではないかぁ?

 ま、確かに、戦争すれば需要は増えるでしょうけれどね。(笑)
 でも、そうなると、サヨクに格好の題材を与えることになるだけ
 だと思うんですけどー。

 支払い能力のことも問題ですよね。
 どんな医療技術だって、タダじゃないでしょう。
 庶民にも払える値段になるのか?
 もし、ならなかったら、健保依存になりますよね。
 でも、そうなると、ま〜た、健保の経営が悪化するのでは?
 夢ばかり煽っているが、そうしたことをちゃんと考えてモノを言
 っているのか?

 自分たちの利権のために負担増を目指すという点では、自民党政
 治も民主党政治と大差無いのですからね。
 難病患者や障害者が救われるのは良いことですが、それでも、や
 はり、軽薄な感じがしてならない点は見過ごせません。


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-.検証怠慢は科学が政治と癒着している
  証拠
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 賞金主義(⊃ノーベル賞原理主義)だの、「社会のため」だの、
 「成長分野」だのといったものの最大の問題点は、依怙贔屓に陥
 りがちになることです。
 その結果、疑似科学がのさばり、まともな科学が淘汰されてしま
 う危険性があるのです。
 これは、実質、政治が(無意識のうちに)科学に干渉することに
 なることなのです。
 こんなことは慎むべきです。

 「社会のため」も、「成長分野」も、政治家どもの思い込みにす
 ぎません。
 そんなもので科学を仕切られては、たまったものではありません。

 政治家の言う「社会のため」や「成長分野」に都合の良い研究は、
 いかがわしいものでも優遇されるに決まっています。
 だから、検証怠慢が起きやすくなる。
 福島第一原発の想定越えの原因となった定説も、福島の「成長」
 を第一に考える政治家らの後押しを得ていたのではないのか?
 そう疑いたくなりますね。

 一方、政治家の言う「社会のため」や「成長分野」に都合が良く
 ない研究は、冷遇されるに決まってます。
 都合の良くない「検証」など、当然、とんでもないということに
 なる。

 研究予算を握っているのが政治家であることを、忘れてもらって
 は困りますね。
 そして、おそらく、人事にも影響力はあることでしょう。
 そうなれば、学者は言いたいことも言えなくなる。

 検証怠慢は、大抵、科学が政治と癒着している証拠です。
 ならば、マスゴミが学者を批判しないように、政府が情報を操作
 するのは、当然のことでしょう。
 政治家どもにとって、その種の学者は忠犬なのですから。

                       (次回に続く)


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