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 N┃→       仮想力線電磁気学
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●反エコ(環境)ファッショ特集 号外

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前回同様、他のメルマガ(サマータイム制導入に反対する)の流用
記事での代用です。
体調が戻るまで、どうか御了承願います。


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-.改めて福島第一原発事故の本当の原因
  を考える <11>
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 今回も前半では、前回の続きとして、これ(↑)をテーマにした
 いと思います。
 まずは、毎回示している重要点を復習してきたいと思います。

 まずは、事故が起きた本当の原因として、以下の三つですね。

 (1)自然災害の想定が低すぎた。

 (2)想定越えという事態を考えていなかった。故に、想定越
    えという事態に対する備えが全く不十分であった。

 (3)事故が起きた時のことを考えていなかった。故に、事故
    への対処がなっていなかった。

 それから、(1)の原因となった「日本の地(震)学」の未熟さ
 を示す証拠として、以下の三つです。

 (A)「日本の地(震)学」者たちは、実は、地下のひずみの
    たまりを把握していない。

 (B)「日本の地(震)学」者たちは、実は、連動のメカニズ
    ムを解明できていない。

 (C)「日本の地(震)学」者たちは、実は、アウターライズ
    地震のメカニズムも解明できていない。

 以上のことを思い出していただいた上で、前回の話の続きを述べ
 ていきたいと思います。


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-.人の振り見て我が振り直せ
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 何度も言うように、東電の想定判断を誤らせた定説(プレート境
 界は「すべりやすい」説)は、それを断言するには全く不十分な
 地質調査を元ネタにした解釈の産物でした。
 解釈崇拝が如何に有害か、東日本大震災と福島第一原発事故は教
 えてくれたのです。

 で、今回は、解釈崇拝の有害性を少しでも多くの方に認識しても
 らいたいという思いから、前回予告したように、芸術の世界にお
 ける解釈の害の一例を取り上げることにしたわけです。

 「芸術なんて、興味ねーよ。」とか、「芸術なんて、非科学の世
 界じゃねーか。」なんて言って、無視しないで下さい。
 『人の振り見て我が振り直せ』と言うではありませんか。
 それに、『目くそ鼻くそ』というのもありますよね。
 「自分は、あんな奴らとは違う。」という態度は危険です。
 実際、世の中の多くの人は、ただの解釈(の産物)を「科学的事
 実だ」と勘違いしているのですから。

 特に気になるのが、理工系の人たちです。
 理工系の場合、学生のうちは、解釈に接したり、解釈を実践した
 りする機会が、ほとんど全くと言っていいほど、無いものです。
 だから、解釈のことを知らず、故に、解釈の魔力も知らず、解釈
 に惑わされ(騙され)ていても気付かない危険性が十分にあり得
 るわけです。
 現に、この私も、若い頃は、実はただの解釈にすぎないことを、
 科学的事実と錯覚していました。(だから、進化論や相対論など
 も盲信していた。)
 だから、解釈の危険性に関心をもってもらいたいと思うのです。

 理工系の人たちだけではありません。
 文系でも、文学部以外の人たち、すなわち、経済学部や法学部の
 人たちは、学生のうちは、解釈に接したり、解釈を実践したりす
 る機会は、そんなにないはずです。
 ですから、理工系ほどではないかもしれませんが、それでも解釈
 に惑わされる危険性は十分にあるのです。

 ま、私の趣味のジャンルからの話題で、申し訳ないのですがね。
 でも、特別な才能や嗜好が無ければ理解できない話にはなってい
 ないはずです。
 というわけで、どうか以下の話にお付き合い願います。


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-.「ベートーヴェンが第9で前3楽章を
  否定している」説の嘘
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 クラシック音楽のマスゴミに登場する「専門家」たちの間では、
 とんでもない説が定説になっていることが、しばしばあります。
 たとえば、「ベートーヴェンは、自らの交響曲第9番二短調『合
 唱つき』の第4楽章で、第1〜3楽章を否定している」とする説
 が、そうです。

 ちなみに、この曲は、日本では毎年年末によく演奏されている曲
 で、「第9」とか「歓喜の歌」という呼び方でも知られている曲
 です。
 で、その「第9」で、作曲者であるベートーヴェンは、第4楽章
 で前3楽章を否定しているぅ!というのです。

 もちろん、この定説は誤りです。
 否定してしまう部分を、あんなに長く手のこんだ音楽にするわけ
 がありません。
 なるほど、確かに、前3楽章は、単独では第4楽章より短いです
 が、それでも、当時としては、かなり長い方です。(時代が違う
 マーラーとかと比較するのは間違いです!)
 それに、三つの楽章全てを足し合わせた長さは、第4楽章よりも
 長くなります。
 第一、否定してしまうぐらいなら、最初から入れないでしょうに。

 定説を盲信する「専門家」たちも、さすがにそうしたことが気に
 なるらしく、「そんなに簡単に否定してしまって良いのかと、心
 配になる。」などとほざいてくれます。
 だったら、定説が本当に正しいのかを心配すべきではないかぁ?
 (例によって、例のごとく、自分たちが信じるものは絶対に疑わ
 ない自称・懐疑精神!)

 全く呆れた態度ですが、それにしても、この定説、何を根拠に導
 かれた説なのでしょうか?
 それは、以下の二点です。

  ・バリトン独唱が「この調べではなく(nicht diese Tuene)」
   と歌うこと。(注:Tuene の ue は uウムラウ(オ)トの
   代用。すなわち、u の上に点々。)

  ・上記のバリトン独唱による否定に先行する低弦(チェロと
   コントラバス)による否定の部分に、前3楽章の断片が現
   れること。

 以上の二点から、「ベートーヴェンは、前3楽章を否定している」
 という解釈を行うことにより、定説が生み出されたわけです。
 で、この解釈が全然間違っているのです!

 まず、バリトン独唱が歌う「この調べではなく」ですが、「この
 調べ」では、全曲中のどこを指しているのか、わかりません。
 つまり、否定の対象が前3楽章とは限らないのです。

 また、これに先行する低弦による否定の部分に前3楽章の断片が
 出てきたからといって、それが否定の対象になっているとは限り
 ません。
 実際、これらの断片は、バリトン独唱による否定の部分には出て
 こないのです。

 それに、この二番目の根拠には、スルー(無視)があります。
 それは、第4楽章冒頭部分の『短調のプレスト』です。

 ちなみに、この『短調のプレスト』は、バリトン独唱による否定
 の部分にも出てきます。
 ということは、否定の対象は、本当は、この『短調のプレスト』
 部分だった…ということになるでしょう。

 実際、この『短調のプレスト』部分は、第4楽章の主部であるは
 ずの「歓喜の歌」とは、全然マッチしないものです。
 ということは、正解は、やはり、『短調のプレスト』部分でしょ
 う。

 では、なぜ、ベートーヴェンは、第4楽章を、どうせ否定してし
 まう『短調のプレスト』で始めたのでしょうか?

 ここに、当時の音楽教養が必要になってくるわけです。
 それは、当時の常識では、この交響曲の場合、前3楽章との関係
 で、第4楽章は短調の速い曲にしなければならなかったことです。
 前3楽章の調と速度を見ると、それぞれ、「短・短・長」、「急
 ・急・緩」となっています。
 このような場合、第4楽章は「短」の「急」とすべきである…と
 いうのが、当時の常識(的な様式)だったのです。

 あまり良い例とは言えませんが、モーツァルトの交響曲第40番を
 見ると、調は「短・長・短・短」、速度は「急・緩・急・急」と
 なっています。
 まぁ、スケルツォに相当する楽章がメヌエットで、しかも、速度
 の遅い楽章との順序(第2楽章と第3楽章)が逆になってはいま
 すが、それでも、当時の音楽教養に基づく常識を理解する上では
 そこそこ役に立つ例と言えるでしょう。

 このように、当時の常識から、ベートーヴェンは『短調のプレス
 ト』で始めざるを得なかったわけです。
 低弦による否定の部分に、前3楽章の断片が現れるのは、それら
 を否定するためではなく、『短調のプレスト』で始めなければな
 らなかった理由を説明するためだったのです。
 前3楽章との関係で、そうせざるを得なくなったわけですからね。

 もちろん、ベートーヴェンは、第4楽章を『短調のプレスト』に
 したかったわけではありません。
 本当は、『短調のプレスト』とは全然相容れない「歓喜の歌」に
 したかったのです。
 だから、否定する必要があったのです。

 つまり、こうです。
 ベートーヴェンは、第4楽章を「歓喜の歌」にしたかった。
 でも、前3楽章との関係から、当時の常識に則ると、『短調のプ
 レスト』にでもしなければならなかった。
 それで、これ(『短調のプレスト』)を否定する部分を設けた。
 でも、いきなり言葉(歌詞)で否定するのは、あまりに挑発的。
 そこで、まず、低弦による無言の否定をさせることにした。
 これだと、保守派の聞き手も、最初は何のことだか、わからない。
 『短調のプレスト』に続いて、そうしなければならない理由であ
 る前3楽章の断片が示されるものの、低弦には「この調べではな
 く、もっと楽しく、よろこびに満ちた歌を歌おう!」とやらせる。
 (もちろん、聞き手には真意がまだわからない。)
 そして、器楽だけの音楽は、いつの間にか、「歓喜の歌」(のメ
 ロディー)に誘導されてしまう。
 そこに、再び、冒頭部分と同じ『短調のプレスト』!
 そして、バリトン独唱の言葉による否定。
 ここで、初めて、聞き手は、低弦が何を言いたかったのか、知る
 ことになる。
 でも、器楽だけの部分で、音楽の進むべき方向(歓喜の歌!)は
 既に決められてしまっている。
 かくして、聞き手は、「歓喜の歌」を受け入れざるを得なくなる。
 保守派は、ベートーヴェンに一本取られた形になる。
 しかも、保守派をやっつけるのではなく、その抜群のユーモアに
 より、同意せざるを得ない状況に追い込むというやり方をとって
 いる。
 ベートーヴェンにしてみれば、まさに、してやったり。
 これが、真相なのです。

 つまり、ベートーヴェンが否定したかったのは、前3楽章などで
 はなく、第4楽章冒頭部分に現れる『短調のプレスト』だったの
 であり、また、「前3楽章との関係から、第4楽章は『短調のプ
 レスト』にでもしなければならない」とする当時の常識だったわ
 けです。

 ついでに指摘しておくと、否定の対象が『短調のプレスト』なら
 ば、この部分(『短調のプレスト』部分)のトランペット・パー
 トがガタガタであっても一向にかまわない(どうせ否定されてし
 まう部分なのだから)ということになります。
 わざわざ完全な(?)楽形に書き直して演奏する必要はないわけ
 です。
 この部分のガタガタぶりを、定説の盲信者たちは、「自然音列し
 か演奏できないナチュラル・トランペットの時代だから、ガタガ
 タなのだ」と解釈してきました。
 でも、それは(半音階演奏が可能なバルブ・トランペットに恵ま
 れた)現代人の勝手な憶測であった可能性が大なのです。

 また、「第4楽章冒頭の激しい『短調のプレスト』は、前3楽章
 に満足できなくなったベートーヴェンの不機嫌さを表すものだ」
 とする解釈も、誤りです。
 このように、間違った解釈は、次々と更なる間違った解釈を生み
 出させてしまうものなのです。

 以上のように、当時の音楽教養があれば、ベートーヴェンの本当
 の意図が理解できるのです。
 実際、当時の教養ある人たちは、ベートーヴェンの本当の意図を
 正しく理解していました。
 ところが、現代の「専門家」たちは、理解できないでいる。
 それは、当時の音楽教養を知らないか、あるいは、(知っている
 のに)健忘症のごとく忘れてしまっているかのどちらかです。

 前者の可能性は、否定しきれません。
 なぜなら、ベートーヴェンの時代以降、教養ある王侯貴族たちは
 没落(→消滅)してゆき、いわゆる「市民」の時代になってしま
 ったからです。
 さらに、20世紀には二度の世界大戦があり、しかも、ドイツは両
 大戦で敗戦国になってしまいましたから、文化が破壊された可能
 性があり、当時の(ドイツ語圏の)音楽教養も失われてしまった
 可能性が否定しきれないのです。

 一方、後者だとしたら、これは『解釈は専門家さえをも大いに惑
 わす』ということの決定的証拠となる話でしょう。
 だから、取り上げたのですよ。

 事実だと思っていることも、実は解釈にすぎないということが、
 結構あるものです。
 そのことを、今回までの話から是非とも悟っていただきたいので
 す。

 ついでの余談。
 ベートーヴェンは、「タ・タ・タ・タ〜ン」で有名な「運命」交
 響曲でも、常識破りをしました。(調が「短・長・短・長」にな
 っている!)
 この時は、第4楽章を第3楽章と連続させることにより区別をつ
 きにくくすることで、保守派からの批判を上手くかわしました。
 ベートーヴェンの賢さには、ほんと、驚かされます。

 ついでに、余談をもう一丁。
 今回斬った定説は、日本製ではありません。(念のため。)
 欧米猿真似人間が多いという点では、クラシック音楽の世界は、
 自然科学の世界と非常によく似ていると思います。

                      (次回に続く)


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-.水蒸気爆発では予測不可能であること
  は周知されていたのか?
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 さて、後半の話題に入る前に、余談を一つ。
 それは、御嶽山の噴火です。
 多くの被害者が出てしまいましたよね。

 で、マスゴミは、例によって例のごとく、これは予測不可能な噴
 火だったのじゃ〜!と報じて、気象庁を庇っています。
 やっぱ、権力の犬なんじゃん。

 仮に水蒸気爆発の場合は予測不可能であるとしても、気象庁に責
 任は無いとするわけにはいかないのです。
 なぜなら、登山客などへの周知の問題があるからです。

 登山客らは、水蒸気爆発の噴火が予測不可能であることを周知さ
 れていたのでしょうか?
 噴火警報レベル1(平常)は絶対に噴火しないことを保証するも
 のではないということを、登山客らは周知されていたのでしょう
 か?
 また、9月中旬に火山性地震が増加していたという情報を、登山
 客らは周知されていたのでしょうか?

 もしされていなかったとしたら、これは気象庁さらには国の怠慢
 でしょう。
 マスゴミは、なぜ、その点を追求しないのか?

 それにしても、マスゴミは「予測不(可)能」が好きですねぇ。
 だったら、気象庁に「福島第一原発を襲った想定越えの津波は、
 予測可能だったのか?」と質問してもらいたいものですね。

 しないのは、その答えを得られてしまうと、東電のせいにできな
 くなるからでしょう。
 卑劣!


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-.気象庁は「予測不可能」とは言ってい
  ない
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 ちなみに、気象庁は、実際には、「予測不可能」とは言っていな
 いのですよね。
 「予測は難しかった」と言ったのです。

 これは、何とでも解釈できる釈明です。
 「原理的、または、技術的に予測不可能」の意味にもとれますし、
 「しくじった」とか「未熟だった」とか「認識が甘かった」の意
 味にもとれます。

 そういう紛らわしい表現を許すというところが、やはり、権力の
 犬なのです、マスゴミは。


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-.エコツーリング&観光立国主義が警報
  を妨害する
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 9月中旬に火山性地震が増えていたのなら、警報レベルをせめて
 「2」ぐらいに上げるか、それが無理なら、せめて地震が増えて
 いた情報を登山客らに提供するぐらいのことをすべきだったはず
 です。
 なのに、しなかったのではありませんか?

 ま、そうであっても、無理はありません。
 なぜなら、ニッポンという国は、エコツーリングや観光立国に狂
 っている国だからです。
 下手に危険情報なんか流されては、観光客が逃げてしまう。
 営業妨害になる。
 だから、「許さない」という雰囲気になってしまうわけです。

 となると、気象庁も出しにくくなるでしょう。
 余程の証拠がない限り。

 このように、エコツーリング&観光立国主義は、警報を妨害し、
 人を殺す危険性を有する主義なのです。
 これと同じような話、確か、前にもしたと思うんですけどねぇ。
 でも、ぜ〜んぜん、聞いてくれてなかったわけですね。
 やっぱ、「金、金、金」ってわけです。
 何が「命の尊さ」か!


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-.人を危険にさらすという点では観光は
  開発と同じ
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 想定越えの元凶となった定説(プレート境界は「すべりやすい」
 説)が支持された背景には、開発優先主義があった…という指摘
 もあります。
 そういえば、広島の土砂災害も、乱開発が一因となっている…と
 いう指摘があるそうではありませんか。
 開発は、誤ると、人を危険にさらすことになるのです。

 そして、同じことが、観光( ⊃ エコツーリング)にも言えるの
 です。
 人を危険な所に導くという点では、同じなはずです。

 そういえば、「脱原発」を唱え、東電や「原子力村」のことを攻
 撃してきた人たちは、「日本は自然災害が多いのに、原発なんか
 推進しやがって…」という論理を展開することが多いですよね。
 ならば、同じことが観光依存にも言えるのではありませんか?
 「日本は自然災害が多いのに、観光客を集めたりして…」と。

 やっぱり、ダブル・スタンダードが三度の飯より好きなみたいで
 す。
 原発が駄目なほど自然災害が酷いのなら、観光依存だって駄目な
 はずです。


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-.人殺しのニセ科学=『おしめり気象学』
  を斬る!<3>
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 さて、ここからは、後半の、人殺しのニセ科学=『おしめり気象
 学』を斬る話です。

 もし、私が、「砂糖の入った紅茶を放置していたら、紅茶に溶け
 ていた砂糖が集まってきて、角砂糖ができましたぁ!」な〜んて
 話をしたら、みなさんは信じますか?
 普通の人は信じないでしょう。

 ところが、同様の話を気象庁やNHKなどのマスゴミがすると、
 信じちゃう人が沢山現れるのですよねー。
 それって、差別じゃありませんかぁ?

 いや、単に真相を知らないだけでしょうね。
 つまり、『おしめり気象学』(「湿った空気(が原因)」説)に
 よる集中豪雨の説明が、エントロピーの法則に反するニセ科学説
 明である…ということに気付いていないことが原因だと思われる
 わけです。

 というわけで、今回もエントロピーの法則に注目したトリック暴
 きをしてみたいと思います。


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-.法則に逆らうためには仕事とエネルギー
  が必要
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 H2Oが集まってくるという現象は、エントロピーの法則に反する
 現象です。
 とはいえ、H2Oを集中させることは、絶対に不可能なことではあ
 りません。
 たとえば、多数の除湿機と(一ヶ所にまとめて置かれた)少数の
 加湿器とを組み合わせれば、理論的には可能です。
 つまり、(多数の)除湿機でH2Oを集め、それにより得られたH2O
 を(少数の)加湿器に供給し、放出させれば、H2Oの集中は実現
 できるでしょう。

 ただし、これを実現するには、除湿機と加湿器の他に、それらを
 動かすための電気が必要になりますよね。
 つまり、エネルギーが必要になるわけです。
 除湿も加湿も仕事であり、故にエネルギーが必要になるわけです。

 つまり、より一般化して言うと、エントロピーの法則に逆らうよ
 うな現象を起こすためには、それを実現してくれるメカニズムだ
 けでなく、(そのメカニズムにより)仕事をしてやる必要があり、
 そのためのエネルギーが必要になってくるわけです。

 したがって、『おしめり気象学』が説く「H2O集中分布現象」論
 を正当化するためには、それを実現するためのメカニズムに加え
 て、仕事とエネルギーの正体を説明しなければならないのです。

 ところが、気象庁は、その説明を全くしていないのです。
 ま、ニセ科学なのですから、説明できなくて当然なのですが…。


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-.だから現象が起きた位置も明かせない
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 H2O集中現象が起きた位置では、メカニズムだけでなく、仕事と
 エネルギーも確認されるはずです。
 では、広島に集中豪雨をもたらしたH2O集中現象は、どこで起き
 たのでしょうか?

 奇妙なことに、気象庁は、その位置を明かさないのです。
 位置を言えば、メカニズムも仕事もエネルギーも確認できないこ
 とがバレるからです。

 メカニズムもそうですが、(必要となる)エネルギーの方も説明
 がつかないですよね。
 どこに、そんなエネルギーが存在するのか?と。

 H2O集中現象が広島の近くで起きたのなら、そんなエネルギー源
 は存在し得ないことになります。
 また、広島よりもずっと南方なら、高海水温をこじつけに利用で
 きるのかもしれませんが、そうなると「予測不可能」が言えなく
 なるでしょう。
 そんな遠くで起きていたのなら、広島に到達するまでの時間が十
 分にあったはずで、故に、予測不能はあり得ないはずです。

 結局、どこを選んでも、矛盾にぶち当たってしまうのです。
 ならば、明かせるわけがないでしょう。

 ニセ科学に固執する今の気象庁は、人殺しのペテン師集団なので
 す。

                       (次回に続く)


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